「阪急電鉄」生みの親・小林一三の人生。「銀行の仕事は少しも面白くない」と34歳で退職を決意。誰も見向きもしなかった鉄道の監査役に就任して…

2025年4月17日(木)12時30分 婦人公論.jp


(写真提供:Photo AC)

子どもの巣立ち、親の介護など…中年期を迎え環境が変わり、この先の人生を憂いている方もいらっしゃるのではないでしょうか。そのようななか「後世で『偉人』と称された人のなかには、人生の後半で成功した『遅咲き』の人が少なくない」と話すのは、偉人研究家、伝記作家の真山知幸さん。そこで今回は、真山さんの著書『大器晩成列伝 遅咲きの人生には共通点があった!』より「阪急電鉄」の生みの親・小林一三が「創作者」という長年の夢をかなえるまでを一部引用・再編集してお届けします。一三は大学卒業後に三井銀行に就職。しかし、学生時代からの夢だった小説家の道を諦めきれないまま、仕事への不満が溜まっていったようで——

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34歳 銀行を退職


「銀行の仕事は少しも面白くない」(※1)

そんな不満を持ちながら、新聞社への就職はかなわずとも、せめて環境を変えたいと、住友銀行や北浜銀行への転職を試みるも失敗。三越呉服店に誘われたときは嬉々として借金までして三越株を買い込みましたが、最終的には内定に至りませんでした。

何をやってもうまくいかなかった一三。

しかし、そんな一三にもついに転機が訪れます。

日本で初めて証券会社を設立するという話が持ち上がり、かつての上司であり北浜銀行をつくった岩下清周や、三井物産の飯田義一から、新事業への参加を求められたのです。

一三にとって岩下は、ダメ社員扱いを受けていた自分を評価してくれた数少ない上司でした。岩下が一三に注目したのは、好き嫌いをはっきり言う性格と、けた外れの行動力に惹かれたからです。

岩下は「近い将来、きっと何か大きなことをやる人物かもしれない」と、一三のポテンシャルを評価していたといいます。

自分を評価してくれる人から新規事業に誘われれば、心も躍るというもの。

一三は関係者から事情を聞いて回りながら、新事業の風向きが悪くないと判断すると、サラリーマン生活に終止符を打つことを決意。13年間勤めた三井銀行に辞表を叩きつけました。そして34歳にして、第2の人生の舞台となる大阪の地へと向かいました。

(※1)小林一三著『小林一三─逸翁自叙伝』(日本図書センター)

証券会社に参画する計画が頓挫


ところが、です。

一三が妻と3人の幼い子どもを連れて大阪に着いた途端、株式市場が暴落。日露戦争の戦勝景気で高騰していた株価が反動を起こした結果でした。

これにより、設立されるはずだった証券会社の話は立ち消えになってしまいます。

意気消沈する一三に、それから2カ月後、また別のチャンスが訪れます。前述の三井物産の飯田と岩下から意外な話を持ちかけられました。

「阪鶴鉄道の監査役になってくれないか」

事情を聞けば、国有化を控えた阪鶴鉄道は清算会社になると決まっていましたが、株主たちは代わりに、大阪梅田─箕面─宝塚、宝塚─西宮を結ぶ、箕面有馬電気軌道株式会社の設立を目指していると聞かされます。これが後の阪急電鉄です。

監査役として一三が頼まれた仕事は、大阪梅田を起点として、まだ電車が走っていない池田・宝塚・有馬地区へと鉄道を敷設すること。

無職の一三に断る理由はありません。今度こそとばかりに、一三は阪鶴鉄道の監査役に就任しました。

準備を進めていくなかで直面したのが資金調達の問題です。なかなか株の引き受け手が見つかりませんでした。

実に発行株式11万株のうち5万4000株も未引受株が出てしまい、会社設立前から、解散の危機に見舞われていたのです。

38歳 借金をしてまで、鉄道を開通させる


この道かと思えば、たちまち壁にぶつかり頓挫する──。

一三の人生は、その繰り返しです。今回もまたダメかと思いかけたことでしょう。


(写真はイメージ。写真提供:Photo AC)

しかし、もう後はありません。一三はいま一度、沿線を自分の足で歩きはじめました。すると、あることに気づきます。

「今はこの沿線地域の可能性に誰も気づいてはいないが、今後経済の中心である大阪に通う人たちにとっては、住宅地域として理想的な環境といえるところが各所にあるではないか。電車が通ることになれば、この地域一帯はまちがいなく高級住宅地になるぞ」

もしかしたら、一三は不遇な自分と、この誰も見向きもしない沿線とを、重ね合わせたのかもしれません。

一三は岩下に未引受株の引き受けをお願いしながらも、自分もリスクをとり、株をできるだけ引き受けようと考えました。

急いで上京し知人を訪ね歩くと、合計1万株を引き受けてもらうことに成功します。また、自分も退職金を注ぎ込んだうえで、親戚縁者から借金をして回りました。

そんな熱意が伝わったのでしょう。岩下が残りの株を引き受けてくれることになり、一三は鉄道事業に乗り出すことになりました。

しかし、もう一つクリアしなければならない問題がありました。それは、箕面有馬電気軌道株式会社には、発起人による創立委員会が組織されていたこと。これから沿線を盛り上げるべくすぐさま手を打とうと考えていた一三からすれば、みなで議論して意見をまとめている暇などありません。

一三は委員長にかけ合って「自分に権限を持たせてほしい」と直談判します。当然、断られますが、「ほかの発起人たちや株主たちに一切、損はさせない。会社が設立できなければ証拠金はすべて返す」という条件まで出して、全権を委任してもらうことに成功。ただでさえ借金もあるなかで「もう絶対に成功させるしかない」という状況へと、一三はさらに自分を追い込んだのでした。

作家志望だけのことはあり……


一三がまず行ったのが、「最も有望なる電車」という37ページに及ぶパンフレットの作成です。そこには、建設工事の説明から、費用の明細、収支予算表、住宅地の経営などの詳細が書かれていました。

そして「遊覧電鉄の真価」として、各駅の見所をアピールしました。服部の天神、箕面公園、中山の観音、売布神社など、現在の阪急電鉄でも引き継がれる各駅の「売り」は、このとき一三が掲げたものです。

このような企業広報を目的としたいわゆるPR誌は、今では当たり前のものになっていますが、それを最初に始めたのは一三でした。

作家志望だけのことはあり、さすがに筆も冴えています。

「箕面有馬電鉄の沿道はそんなによいところですか。これはくわしく申しあげるまでもありません。何人でも宜しい、大阪付近を跋捗して御覧なさい。吹田方面、桃山、天王寺、天下茶屋、住吉、浜寺、それから阪神線の沿道を街一覧になった上で比べて見て下さい。この沿道は飲料水の清澄なること、冬は山を北に背にして暖かく、夏は大阪湾を見下ろして吹き来る汐風の涼しく、春は花、秋は紅葉と申分のないことは論より証拠で御一覧になるのが、一番早わかりが致します」(※2)

読者の目に浮かぶような風景描写によって、鉄道のアピールポイントを打ち出しています。

やがて一三は、自分の文才をまったく違うかたちで発揮させることになります。

(※2)小林一三研究室編『小林一三 発想力で勝負するプロの教え 永久保存版』(アスペクト)

※本稿は、『大器晩成列伝 遅咲きの人生には共通点があった!』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)の一部を再編集したものです。

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