「阪急電鉄」生みの親・小林一三が長年の夢をかなえるまで「50代を迎えてもなお、夢を持つ意味は十分にある」
2025年4月18日(金)12時30分 婦人公論.jp
(写真提供:Photo AC)
子どもの巣立ち、親の介護など…中年期を迎え環境が変わり、この先の人生を憂いている方もいらっしゃるのではないでしょうか。そのようななか「後世で『偉人』と称された人のなかには、人生の後半で成功した『遅咲き』の人が少なくない」と話すのは、偉人研究家、伝記作家の真山知幸さん。そこで今回は、真山さんの著書『大器晩成列伝 遅咲きの人生には共通点があった!』より「阪急電鉄」の生みの親・小林一三が「創作者」という長年の夢をかなえるまでを一部引用・再編集してお届けします。夢を諦めきれないまま、一三は30代で阪鶴鉄道(のちの阪急電鉄)の監査役に就任。新しい鉄道の敷設を頼まれた一三は、資金調達に苦労しながらも試行錯誤を重ねていき——
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「郊外生活」のトレンドをつくり出す
一三は沿線周辺となる土地を31万坪も買収。その土地で住宅月賦販売を開始しました。まだ月賦が、服や自転車にくらいしか組まれていなかった頃に、初めて「住宅ローン」を適用したのです。
住宅販売の謳い文句は、「排煙の漂う不衛生な都会から脱出し、清潔で爽やかな郊外生活をしよう」というもの。「郊外に住むことこそが高級な暮らしだ」と、人々の価値観の大転換を図りました。
この宣伝作戦が大いに功を奏し、住宅は飛ぶように売れ、予想を超える人気を博します。
明治43(1910)年3月10日、梅田─宝塚間、石橋─箕面間の第1期工事完了を経て、箕面電車は予定より21日も早く開通しました。
梅田、池田、宝塚の3箇所の停留所では、草花のアーチをくぐらせ、夜間にイルミネーションが点灯。
さらに宝塚には舞妓が出迎え、空には軽気球が飛び、響き渡るは100発の号砲……。まるでお祭りのような演出は、もちろん一三が考えたものです。
加えて、一三は根回しも忘れていませんでした。彼はあらかじめ、沿道にあるすべての小学校に「箕面有馬電車唱歌」を配布。開通日までに歌を流行らせるという仕掛けを施していました。一三ならではの芸の細かさだといえるでしょう。
順調なスタート
初日の運賃収入は1650円でした。予測としては「開業月は1日約200円〜400円で、次月以降から軌道に乗れば1日1200円くらいだろう」というものだっただけに、極めて順調な数字です。一時は実現さえ危ぶまれた箕面鉄道ですが、一三の懸命な工夫で順調なスタートを切ることができました。
そして、開通からおよそ半年が経った11月、沿線に乗客を呼び込むべく、一三は箕面動物園を開園します。
続いて一三は宝塚に目を移し、明治44(1911)年5月には、宝塚新温泉をオープン。大浴場を設置するなど、ファミリーを意識した戦略はまたもや大当たり。1日に数千人もの入浴客が大理石の浴槽に殺到するという、異常なほどの成功を収めました。
この温泉に付随するように、一三は洋館娯楽施設「パラダイス」を開設し、屋内プールや各種アトラクションを設置。進化したテーマパークは、ターミナル娯楽施設の先駆けとなりました。
41歳 「宝塚少女歌劇団」発足
このように、一三が立てた作戦は多岐にわたるものでしたが、その極めつきともいえるのが、宝塚と聞いて誰もが最初に連想する「宝塚歌劇団」の前身、「宝塚少女歌劇団」の発足でしょう。
婚礼博覧会というイベントの余興として、一三は少女による歌劇を始めました。当初は、あくまでも鉄道の販促物として誕生した歌劇団でした。
(写真提供:Photo AC)
しかし、公演料を取っても連日満員になるほどの実力をつけていき、宝塚少女歌劇団はいつしかプロの劇団へと成長していきます。
やがて、「宝塚音楽歌劇学校」が設立され、一三が校長に就任しました。
こうして、主要街道も通らぬ殺風景な村落に過ぎなかった宝塚は、遊び心満載の一三ならではのアイデアで、人の集まる賑やかな観光地へと変貌を遂げたのです。
連動して箕面電車も潤い、順調な営業成績から、日本で初めての社債200万円の売り出しが成功。すべては一三の「鉄道に人を呼びたい」という強烈な思いが結実したものでした。
夢の創作活動にたどり着く
ここで注目したいのは、歌劇団の活動にあたって、一三自らが脚本の執筆も行ったということ。その作品数は22本にも及び、一三は小説家として創作活動を行うという夢を、脚本家というかたちで実現させたことになります。
「宝塚少女歌劇団」の初公演は1914年なので、一三は41歳から創作者として新たな人生を歩みはじめたといっても過言ではないでしょう。
さらに、一三は昭和4(1929)年、56歳のときに阪急百貨店を創業。日本ではじめてのターミナル・デパートを設けて、乗客をさらに集めることに成功します。一三のクリエイティビティは、街づくりというジャンルでも、大いに発揮されることになったのです。
銀行員時代に憂鬱な日々を送っていた一三が、こんな40〜50代を過ごすのだから、人生はわからないものです。
回り道もたくさんしました。本人も意図せずして生まれたチャンスばかりです。このまま自分の人生には、大したことは何も起こらないのではないか。そんなふうに絶望したこともあったことでしょう。
それでも「退路を断つ」ことで、一三は前を向かざるを得ない状況をつくり、自らの行動をかき立てました。
簡単にはうまくいかないからこそ、人生は面白い。50代を迎えてもなお、夢を持つ意味は十分にあるといえるでしょう。
※本稿は、『大器晩成列伝 遅咲きの人生には共通点があった!』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)の一部を再編集したものです。