伊藤比呂美「パスタ・カンタービレ!」
2025年4月18日(金)12時30分 婦人公論.jp
(画=一ノ関圭)
詩人の伊藤比呂美さんによる『婦人公論』の連載「猫婆犬婆(ねこばばあ いぬばばあ)」。伊藤さんが熊本で犬3匹(クレイマー、チトー、ニコ)、猫3匹(メイ、テイラー、エリック)と暮らす日常を綴ります。今回は「パスタ・カンタービレ!」(画=一ノ関圭)
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パスタだ。ペペロンチーノだ。今はそれしか作りたくない。人が来ると「パスタ食べてけ」となるのである。
「パスタ食べてけ」の前は「天津飯食べてけ」だった。その前は忘れた。その前といったら早稲田と熊本との行き来に汲々としていた頃で、人をうちに呼ぶ余裕がなかったのかもしれない。今はよく人が来るから、酒食を饗する。今はパスタを饗する。
パスタ作りの手順は単純なようで複雑、注意点が各所にあり、順よく書くのが難しい。枝元がうなりながらレシピ書きをしてるのをよく見ていたが、こんなに難しいものだったんだなと今更ながら。細かいところは省略して、一気に大局からいこう。
極意は、乳化とあおりである。
もう一回言いますよ。乳化と、あおり。
鍋でスパゲティをゆでながら、フライパンでオリーブオイル(多め)、ニンニク、トウガラシをゆっくりいためる。ゆで汁を少しずつ加えて乳化する。
あ、このとき、材料全部フライパンに入れてから火をつけること。それから、鍋のお湯は多すぎないこと(ゆで汁に小麦粉のうまみが出る)。あ、それから、グラグラ煮立たせずにゆでること。塩は多めね。
さて、所要ゆで時間の一分前。
ここが正念場だ。
ゆで汁をお椀に取り置く。麺を湯切りしフライパンに投入する。左腕がフライパンを揺すってあおる。アレグロ! アレグロ! 麺が空中に躍りあがる。ゆで汁を少しずつ加える。右手の箸が麺をさばいて、ソースと空気とゆで汁をまんべんなくからませる。カンタービレ!
去年トリノに行って現地の友人の家に招待されたとき、友人の別れた夫がやってきて、パスタを作ってくれた。アーリオ・オーリオにアンチョビが入っており、カラスミがたっぷりかけてあった。パスタは照り照りでもちもちでアルデンテだった。
別れた夫は調理師学校中退で、台所での動きは素早く、自信にみちていた。でも自分は意思をもって中退したのだという矜持があるかのように適当っぽくもあり、それがまたよかった。そして手順と手際のすべてが、今まであたしがそれなりに作ってきたパスタの作り方から、大きくかけ離れていた。
そもそもあたしはパスタ、とくにスパゲティにはなんの興味もなかったのである。炭水化物で、炭水化物で、炭水化物で、油っぽくて。イタリアンに行っても注文したことがなかった。しかしながらパスタ師匠のカラスミのスパゲティで、すべては変わった。
日本に帰ってから、毎日ひとりで復習した。高いカラスミは無視してペペロンチーノを作ることにした。本物のパルミジャーノを買ってきて削ってかけてみた。イタリアンパセリも必要だったが、遠くのスーパーにしか売ってないから忘れることにした。
それからうちに来た人々をつかまえて「パスタ食べてけ」とやりはじめた。来る人来る人みんな食べていってくれたから、技術はぐんぐん向上した。
応用もやってみた。アンチョビやあさりを入れたり、キノコやキャベツを入れたり、ベーコン入れたり。しかしあるとき、ついに究極の発見に至ったのであった。
しらす。明太子。
かけた途端、チーズやカラスミと同じような塩っ気や魚臭さが加味されて、パズルのピースがピシッとはまったような快感を感じた。しらすにはしょうゆを数滴たらす。しょうゆで発酵みが加わるからチーズやカラスミに近くなる。熊本の客はすごく喜ぶが、パスタ師匠には破門されるかも。
しかしですね、こうして書いてみてわかったことがある。あたしの料理において、おいしいものを食べたいの、人に食べさせたいの、という気持ちは二の次で、興味はひたすら作る技術にあるということ。
家族がいたときは「食べさせる」が目的だったから、栄養も味もメニューもまんべんなくを心がけていた。今は違う。
料理とは、自分の好奇心をひたすら追いかけて突きつめるための手段だ。他のことに比べて比較的短時間で決着がつくし、かなり安価だし(高いものは買わない)、何より、ひとりで自分の動作に向き合う、心を無にして手を動かすというのが、ひとり暮らしにぴったりと合うのである。
で、あたしが次にどこへ行くかというと包丁なんである。こないだ天草の道の駅で砥石を買った(天草の砥石は有名だ)。それでそれ以来、包丁を研いでいる。
昔は家の中に、包丁を研いでくれるというか、研ぐのが好きな人がいたので(夫であります)、自分じゃやらなかった。夫が老い衰えて動けなくなってから、トマトが切れないのに気がつき、簡易の研ぎ器を買ってみた。手軽だったが、夫が研いでくれたみたいに、さわっただけで血が出るような、そういう刃にはなかなかならず、付け焼き刃という感じだった(使い方合ってません)。
日本に帰ってきてからも、生協のカタログで研ぎ器をみつけて買って、適宜しゃこしゃこやっていたのだが、つねにトマトが切れるか切れないかのろくでもない包丁だった。しかし砥石を使うようになってからは、家じゅうの包丁という包丁の、刃という刃が、寄らば切るぞの状態を保っている。
あたしが研ぐのは料理を始める前ばかりじゃない。台所の片付けの終わった後も、寝る前にも歯ブラシくわえて、それからなんだか煮詰まったときも、しめきりの最中にも、あたしはひとりで、無言で、包丁を研ぐ。