なるも地獄、ならぬも地獄の世界遺産、苦節12年かかった石見銀山の登録と“石見以前”“石見以後”の明暗

2025年4月18日(金)6時0分 JBpress

(髙城千昭:TBS『世界遺産』元ディレクター・プロデューサー)


「なれるかも幻想」の始まり

 株価や地価が急落して「バブルがはじけた」といわれた1992年、日本は20年遅れで世界遺産条約にやっと参加した。そして翌93年に「屋久島」「白神山地」「法隆寺」「姫路城」の4件が初めて世界遺産リストに登録される。

 振り返ってみれば、それまで右肩上がりの経済成長(世界遺産条約が採択された1972年に、田中角栄の「日本列島改造論」がドンピシャ発表)を信じて疑わなかった私たちが、開発よりも自然環境や伝統文化に目を向けるようになる転換点だったのかもしれない。ただこの時、世界遺産の知名度などゼロに等しい。

 それが、人気が出始めて価値が認められると、登録は郷土の“誇り”であり、世界遺産ツアーを旅行の目玉にした「町おこし」が目論まれるようになる。わが町もぜひ登録を……と名のりを挙げる地域が続々と登場した。こうして増えつづけて、いま日本の世界遺産は26件(自然5、文化21)。

 良い意味でも悪い意味でも登録史を画する分岐点になったのが、島根県の「石見銀山遺跡とその文化的景観」(登録2007年、文化遺産)である。“石見以前”と“石見以後”の2つに区分してさえ構わないと思う。

 石見銀山は、日本で14番目の世界遺産である。それまでは「京都」(金閣寺・清水寺・二条城など)「白川郷」「厳島神社」「日光東照宮」「知床」と、すでに有名な納得し易い場所が選ばれていた。そこに突然、無名の石見銀山が浮上して、観光するべき箇所が少ない“遺跡”なのに登録されてしまう。これをきっかけに、日本全国津々浦々の市町村は、「わが町のお宝も選ばれるかも?」と幻想を抱いたに違いない。

 そして、この遺跡から日本の世界遺産は、一目見ただけでは理解できない“ストーリー性”を帯びてくる。さらに最も核心的なギアチェンジは、“落選”があることを世に知らしめたことだろう。石見までは、申請されればすんなり登録される13連勝中だった。最終的には、勧告をくつがえして“逆転登録”されるのだが、世界遺産には不登録があるという事実を初めて突きつけられることになった。石見以後を要約すると、以前とは違う3つのポイントが指摘できるだろう。

1:あらゆる自然・文化が「世界遺産になりうる可能性」に目覚めた
2:ストーリーを読み解かなければ、価値がわからない
3:事前審査の評価が悪くても、ロビー活動でひっくり返せると気づく

 石見銀山は、16世紀からの100年あまり年間40トンもの銀を採掘して、世界全体の産出量の1割を占めたという。ヨーロッパ人が日本を描いた最古の地図「ドラード日本図」には、石見は「銀山の王国」と記されている。ポルトガルは、これを航海の海図にして日本をめざした。大航海時代の世界経済を動かしたのは、石見の銀だったのだ。

 地元(大田市・銀山のある大森地区)はこうした歴史的意義にいち早く気づき、登録プロジェクトを開始したのは1995年。先見の明はあったものの、登録までに12年かかるという苦難の成功談になった。


「環境に優しい鉱山」のキーワードで逆転登録

「新聞に“落選”と書かれ、苦情の電話が毎日トータルすると3〜4時間くらいかかってきました。金のかけ過ぎだろうと……実際、銀山の鉱業権譲渡や土地所有者1100人の同意など、調査や修理・保全を含めて、累計32億円も費やしていました」

 こう語るのは、大田市石見銀山課で推薦書の作成にずっと関わってきた中田健一さんだ。世界遺産になるためには、文化遺産はICOMOS(イコモス:国際記念物遺跡会議)、自然遺産はIUCN(国際自然保護連合)という諮問機関の事前審査を受ける。その評価が、4段階(登録・情報照会・登録延期・不登録)の下から2番目「登録延期」と公表された際のニュースである。このまま登録延期を決議されると、新たに推薦書を書き直して再提出、もう一度イコモスの調査を待たねばならない。中田さんは、もう10数年も努力してきたのに、この上まだ最低でも2〜3年かかるのかと落胆する。

「なるも地獄、ならぬも地獄の世界遺産ですよ。始めたからには、なるまでやるしかない……」

 仙ノ山を中心にした銀鉱山は、精錬所や銀掘(かねほり)たちの住居だけでなく、鍛冶屋や商店、寺がびっしり立ち並ぶ“銀の王国”だった。最盛期には2〜3万人が暮らしていたらしい。しかしイコモスが調査をした当時、発掘された面積は0.1%にすぎず、大半は地中に埋まっていた。

 間歩(まぶ)と呼ばれる坑道は600カ所に及ぶのだが、これも崩落の危険があるために立ち入り禁止。「龍源寺間歩」だけを公開していた。目にできる物証が少ないことが、登録に向けての最大のネックになっていたのだ。

 評価を2段階上げるには、他の委員国20カ国(この時、日本は委員国)を瞠目させる、新たなキーワードが必要だった。そこで、捻り出されたのが「環境に優しい鉱山」である。すでに世界遺産だった南米ボリビアの「ポトシ銀山」(登録1987年、文化遺産)は、岩肌がむき出しになった禿山である。銀を精錬しつづけるには膨大な火力が必要で、周囲の森から木々を伐採し尽くしてしまうのだ。

 しかし石見銀山の絵図では、鉱山の柵外に緑深い森がある。炭にする木材を得ると、その分植林をくり返した。世界中のどの鉱山にも見られない、自然への労りである。世界遺産が進めようとする持続可能な開発が、江戸時代の400年前にすでに実現していた。

 チリがまず登録に賛成したのを潮目に、石見銀山に好意的なまなざしが向けられるようになる。そして「世界遺産の歴史に新しいページを開く」と、逆転登録に結びついた。

 銀掘の鏨(たがね)のひと掘りひと掘りが、間歩という大空洞を生み出した。タテ穴には、今も黒い銀鉱脈が残されている。この銀が大森鉱山街の代官所に集められ、2つの銀の道を通って、鞆ヶ浦と沖泊からヨーロッパへと渡った。港がある温泉津には、泉薬湯がコンコンと湧き出していて、人足たちの疲れを癒したのかも知れない。

 これら16〜17世紀の銀産出システムの全体像が、1つの世界遺産になっている。石見銀山遺跡を“見る”とは、江戸の昔に思いをはせるイメージ力である。

(編集協力:春燈社 小西眞由美)

筆者:髙城 千昭

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