石原慎太郎は膵臓がんとの闘いに“怒り”を…「なんでオレがこんなヤクザな目に遭わなきゃいけねえんだよ」
2025年5月3日(土)7時10分 文春オンライン
〈 膵臓がんが再発、余命3ヶ月を宣告され…石原慎太郎の四男・延啓氏が明かす“父が遺した最期の言葉” 〉から続く
文壇と政界に、巨大な足跡を残した石原慎太郎(1932〜2022)。その歯に衣着せぬ物言いは、常に世間の耳目を集めた。しかし、いくら燃え盛った太陽も、いつかは沈む。その最期を看取った、画家で四男の延啓(のぶひろ)氏が明かす、父・慎太郎が遺した言葉とは。(全3回の2回目/ #3 に続く)

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石原の四男である私は1966年、神奈川県・逗子海岸近くの家で生まれました。
その家は私が生まれる1年前に、父が建てたもので、崖の上に立つ鉄筋コンクリート打ちっ放しの2階建て。父の人生の大部分を占める「海」を一望できました。その頃は芥川賞を受賞してから10年が経ち、流行作家として小説を次々と発表していた時期で、映画、演劇、ヨットと、マルチに活動して大変な勢いがあったようです。
とても広い家でしたが、父の書斎、アトリエ、書庫、サロンなど、ほとんどは父だけの為の空間が占めていました。
私たち子ども4人に与えられたのは小さな部屋ひとつ。3人の兄たちにとっては、せっかく広い家に引っ越してきたのに、自由に遊べる空間が限られ不満だったそうです。庭もかなりの広さでしたが、夜遅くまで起きて仕事をしている父が眠っていたので昼を過ぎても声を立てて遊ぶ事はできませんでした。私が10歳を過ぎてから、ようやく子ども部屋を増築して全員に一部屋ずつ分け与えてもらいました。
父は“リベラル”
私にとっての父はアーティスト、表現者の大先輩でした。アーティストが時に物書きになり、時に政治家になった。父は絵も非常に上手くて才能がありました。子供たちは、長男(伸晃)と三男(宏高)は政治家、次男(良純)が俳優でタレント、そして私が画家の道へと進みました。
先日、次兄がテレビ番組でこんなことを言っていました。
「親父にとって子どもは分身」
だから、たまに好き勝手なことを言うけれども、直接何かを教えてくれる訳ではない。家にもほとんどいませんでしたから、「背中で語る」というわけでもない。家庭での教育は母の役割。政治家の妻として支援者の前で父に恥をかかせないようにとしつけには厳しかったと思います。
父は画家を志望していた事もあり、私たち兄弟は子どもの頃から絵画教室に通わされていました。兄達がそれぞれの方面へと興味を移す中、残された私はアーティスト・石原慎太郎の分身であるわけですから、父は「お前は当然、絵描きになるのだろ」という調子です。大学は経済学部名目の体育会水球部。このまま就職するにせよ、どうするかなと思った時期もありましたが、父は私が画家になることを信じて疑わなかった。かといって進路について話すことも強制することもありませんでした。
放任主義の父でしたから、アートの道へ進んでからも、たまに批評をするのみで具体的なアドバイスをもらったこともありません。但し、常に感覚、感性の話はしていました。そして、私がその都度興味を持った訳の分からない抽象的な話題を持ち出しても、面白がって聞いてくれました。思い返しますと、あんなに勘が良くて聞き上手な人は珍しいのではないかと思います。
闘病生活に入ってからある日、
「結局、僕らは親父からなんにも学んでないよな」
父と似たキャラクターがいない我々兄弟を思い浮かべて聞いたことがあるのですが、
「すまない、(子育てに)興味がなかった。自分がやりたいことが多過ぎて時間がなかった」
そう正直に白状されました(笑)。ただ、父なりに我々兄弟を愛してくれていたことは間違いありません。
「職業は石原慎太郎」
本人がよくそう言っていたようにどんなカテゴリーにも収まらない人でした。既成概念や体制に囚われることを軽蔑している。私にとって「リベラル(自由)」とはイデオロギーに囚われない父のことなのです。リベラルな人間がたまたまタカ派的な思想を持っているとみていました。
亡くなってから葬儀までの間に、ものを取りに父の書斎に入ると、テーブルの上に乱雑に積まれている本の中で柄谷行人さんの対話集が目にとまり、意外な取り合せだな、本当に交流があったの? と興味を持ち目を通しました。
哲学者で文芸評論家の柄谷行人さんの対話集『柄谷行人発言集 対話篇』です。柄谷さんといえば、憲法9条を擁護し「左翼」を自認している方ですから、改憲を主張した父とは相容れないイメージがあります。付箋がついている頁をめくると父との対談が載っていて驚きました。
調べてみると、対談は1989年に文芸誌「すばる」で行われたもの。当時、国会議員の父はその1カ月後に総裁選に出馬しています。二人の対談を読み進めると、政治から文学の話までお互い率直に対話しているのが伝わってきました。
今の世の中は、「ポリコレ」(ポリティカル・コレクトネス)の縛りがきつくなって発言が不自由になりがちです。党派的な分断が進み、考えの違う者同士の交流は滅多に見られません。
父はタカ派と言われましたが、作家でベ平連代表だった小田実さん(故人)とは親友だったと、本人から聞いたことがあります。小田さんは反戦を訴え、護憲運動にも熱心な方ですから、知人にこのことを言うと「石原慎太郎と小田実が!」と驚かれるのですが、父も、小田さんのベストセラーのタイトルである「何でも見てやろう」の精神でしたから、ウマが合ったようです。
昨年10月に余命宣告される少し前だったでしょうか、父が「自分は選ばれた人間だという自負はあったよ」と言いました。端から見てもそう思ってはおりましたが、本人の口からは今まで聞いたことがありませんでした。また、最近になってよく「Somebody up there likes me」と口にしていました。これはポール・ニューマン主演の映画「傷だらけの栄光」の原題です。実在したボクサーの伝記映画で、刑務所あがりの不良少年がミドル級チャンピオンになるまでの生涯が描かれています。直訳すれば、「上にいる誰かさんはオレの味方だ」。父が神を信じていたのかどうかは分かりませんが、「自分は運がよかった」「幸せな人生だった」と振り返っていたのでしょう。
級長選挙の思い出
実は、昨年3月に軽い脳梗塞を再発し、かねてから懸案であった頸動脈にある動脈硬化の塊を手術で摘出しました。その直後から父の頭は明らかにクリアになったのです。兄たちも「絶対に冴えたよな」と口をそろえていました。2013年に脳梗塞を発症してからは、同じ様な話を繰り返すことが増えていたのですが、私たち家族も初めて聞くエピソードが次から次へと蘇ってきたのです。
そのひとつが小学校の級長選挙の思い出。父は11歳のとき、海運会社に勤めていた祖父の転勤に伴い、小樽から逗子の学校に転校しました。小樽ではずっと級長だったので転校先でも級長に立候補したのですが、これまで級長を務めていたクラスのリーダーも手を挙げた。その子は男らしく人気もあり、父にとっては目の上のたんこぶのような存在だったようです。
先生の計らいもあり、しばらくは級長2人体制だったそうですが、次の学期にライバルが親の仕事の都合で転校することになった。それを知った父は、「心から良かったと思った」そうです。聞いている私は、なんてケツの穴の小さい話なんだと思いましたけれど(笑)。89歳の人が思い出してわざわざ語る話でもない。でも、父の心の奥にずっとあったエピソード、正に父にとっての「人生の時の時」のひとつだったのでしょうね。
最後の数カ月も、そういった思い出をワープロに書き留めていたようです。「文藝春秋」11月号には、熱海の初島で命からがら帰還した「ワーストヨットレース」を寄稿。1月号では、大学の寮生活と芥川賞受賞の頃を振り返っています(「文藝春秋と私の青春時代」)。人生の節目節目で父は「Somebody up there likes me」だった。そう本人が実感をもって言えたわけですから本当に幸せ者だったと思います。
それなのに最後の最後で癌に苦しめられた。
「なんでオレがこんなヤクザな目に遭わなきゃいけねえんだよ」
癌との闘いにそう腹を立てていました。晩年の父のそばにいて感じたのは、とにかく生きることへの執念が強かったことです。
〈 石原裕次郎が亡くなった時は“デスマスク”を描かせ…石原慎太郎が闘病中に問い続けた「自分が死んだらどうなるのか」 〉へ続く
(石原 延啓/ノンフィクション出版)