膵臓がんが再発、余命3ヶ月を宣告され…石原慎太郎の四男・延啓氏が明かす“父が遺した最期の言葉”
2025年5月3日(土)7時10分 文春オンライン
文壇と政界に、巨大な足跡を残した石原慎太郎(1932〜2022)。その歯に衣着せぬ物言いは、常に世間の耳目を集めた。しかし、いくら燃え盛った太陽も、いつかは沈む。その最期を看取った、画家で四男の延啓(のぶひろ)氏が明かす、父・慎太郎が遺した言葉とは。(全3回の1回目/ #2 に続く)

◆ ◆ ◆
「オレは女々しく死んでいく」
「最後まで足掻いて、オレは思いっきり女々しく死んでいくんだ」
昨年12月半ば頃、病床の父はいつもより強い調子で言いました。
その日、親友の高橋宏さん(日本郵船元副社長、2021年6月逝去)の思い出話をしていたときのことです。高橋さんは幕末の剣豪で禅に通じた山岡鉄舟が大好きでした。そこで私は、こういう人もいるんだねえ、と山岡の最期について父に話を振ってみました。
胃がんを患った山岡は自分の死期を正確に予期し、最期の日に弟子や家族を呼んで座敷の真ん中で座禅を組んだまま絶命したといいます。
ところが、父にこの話は響かなかったようで、乗ってはきません。そして「オレは女々しく死んでいく」と。正直な気持ちであったと思います。いつでも本心を語りつつ、格好つけているのかいないのか。今振り返れば、最後の最後まで親父は石原慎太郎でした。
遺稿「死への道程」は、昨年10月に膵臓がんが再発し、医師から余命3カ月を宣告されたときの心情を正直に綴ったものです。宣告後にどう声をかけたらいいか分からずに、思わず「正岡子規の『病牀六尺』ではないが、今の心境を描写していったら?」というと「オレは日記を書く」と父は答えてくれました。しかし、実際に書いたのはこの原稿です。
父は原稿をすぐにでも「文藝春秋」に掲載してもらうことを望みましたが、病気が公になれば、闘病生活を静かに送ることができなくなるかもしれない。家族の判断で私たちの手元にとどめることにいたしました。あの父のことです。もしそのことを知ったならば烈火のごとく怒ったかもしれません。
「太陽の季節」とともに
告知直後で体力的にまだ元気であった頃に書かれたこの文章は、身内からするとまだ格好つけているのではないかと感じられるところもあります。それでも、やはり父らしく死へ向かっていく父らしい文章だと思います。今回、父が世に出るきっかけとなった「太陽の季節」と同時に掲載していただく(同号の「文藝春秋」に掲載)ことは、生と死をテーマに作品を書いてきた父にとって本当にありがたい場になったと思います。
2年前、奇跡的に早期の膵臓がんが見つかり、重粒子線治療を受けられたのは幸運でした。ところが昨秋、再発が分かったときには、すでにお腹のあちこちに癌が転移する腹膜播種が起きていました。父は星のように散らばる癌のレントゲン写真を見て戦慄した、と申しておりました。高齢で持病も抱えていたので、もう抗がん剤治療はせずに少しでも痛みや辛さを和らげるための緩和ケアを選択しました。以来、自宅と介護施設を行き来する、最後の闘病生活がはじまったのです。
亡くなる5日前、最後の会話
年は越せるかもしれないが、来春の桜は見られないだろう——私たち家族は覚悟しました。日に日に衰弱し歩くのも辛そうでしたが、頭ははっきりしているのに体が言うことを聞かないので「肉体派」を自負していた父は12月に入る頃から常にイライラしていました。
年が明けると、一日寝て過ごす日が増え、意思疎通もままならなくなっていました。亡くなる2週間前には愛用していたワープロは開いていても、文章の途中に文字化けが散見されるままで、書くのを断念した形跡がありました。もう体力の限界だったのだと思います。それでも突然に兄へ電話をかけてきて「よし、春には孫も全員連れて瀬戸内海にクルーズに行くぞ」と言い出して皆を驚かせたこともありました。
最後に話をしたのは亡くなる5日前の1月27日のことです。お腹を痛がって、夕方顔を出した私に「なんとかしろ!」と騒ぎます。このところ眠っているばかりの父に怒られるのは久しぶり、何より怒る元気がある証拠ですから嬉しくなってしまいました。ビールを飲みたいとまで言い出して一番小さいものをひと缶飲み切りました。美味しいかと尋ねると「美味いねぇ」と満足そうに答えます。この時とばかりにお腹をさすってあげながら父が元気な頃のままに少し話をしました。
そして〈今しばし死までの時間あるごとくこの世にあはれ花の咲く駅〉で始まる上田閑照さんの随筆『折々の思想』のプロローグを朗読してあげた際に「こういう良いエッセイとは何処で出会うの?」と聞かれたのが、そのまま眠りに落ちてしまった父との最後の会話になりました。
本来は上田さんのような京都学派は父のガラじゃなかったと思いますが、何か感じるところがあったのでしょうか。今となっては確かめる術はございません。
LINEで「様子がおかしいので来ています」
翌々日には母と会ったり、同伴した義姉にくだをまいたりということを耳にしていたので少し持ち直してきているように思いましたが、2月1日朝9時ごろ、父の容態が思わしくないとの知らせを受け、施設に駆け付けたところ、目を見開いて天井をみつめ苦しそうに荒い呼吸を繰り返していました。
すぐにお腹をさすってあげましたが介護士の方が身体を拭いてくれるというので、父の頭や顔にそっと手を置きました。するとすぐに呼吸がすーっと落ち着いていきました。良かったと安心しかけたところで別の介護士の方が来て指先で血圧を計ったのですが、数字が出ない。あー親父は逝ったのかと悟りました。
家族にはLINEで「様子がおかしいので来ています」と送っていたのですが、次の送信が「息を引き取りました」となってしまいました。あっという間に潮が引いていくような最期でした。時刻は午前10時20分。部屋に着いてから25分後でした。父は常々「痛みに苦しみながら死ぬのは嫌だ」と申しておりましたので、息子としては、酷い痛みに苦しむ前に最期を迎えたのは、それはそれで良かったのだと思います。
〈 石原慎太郎は膵臓がんとの闘いに“怒り”を…「なんでオレがこんなヤクザな目に遭わなきゃいけねえんだよ」 〉へ続く
(石原 延啓/ノンフィクション出版)