『べらぼう』浮世絵師・喜多川歌麿はどんな人?大首絵で出世、蔦重との関係が冷え込んだ理由、処罰の理由と最期

2025年5月5日(月)6時0分 JBpress

(鷹橋忍:ライター)

今回は、大河ドラマ『べらぼう』において、染谷将太が演じる喜多川歌麿を取り上げたい。


デビュー作は茄子の絵?

 喜多川歌麿の出自は、解明されておらず、親兄弟の名前はもちろんのこと、武家なのか、農民や商人の家なのかも、定かでない。

 生年も不詳だが、文化3年(1806)に54歳で没したという通説から逆算して、宝暦3年(1753)の生まれだと推定されている。

 宝暦3年説が正しければ、寛延3年(1750)生まれの蔦重より3歳年下となる。

 出生地も、江戸、川越、京都など諸説があり、特定には至っていない。

 寛政2年(1790)頃、桐谷健太が演じる大田南畝が原撰した浮世絵師の伝記・経歴の考証書『浮世絵類考』によれば、俗称を「勇助」といい、はじめ片岡鶴太郎が演じる鳥山石燕(とりやませきえん)の門人となり、狩野派の絵を学んだ。

 鳥山石燕は、『画図百鬼夜行』などの妖怪絵本で知られる人気絵師である。岡山天音が演じる恋川春町や、歌川派の祖となる浮世絵師の歌川豊春も、戯作者の志水燕十も、鳥山石燕の門下だ。

 歌麿のデビュー作とされる、確認できる中で最も古い作品は、明和7年(1770)に出版された歳旦帳(さいたんちょう/年の初めに刊行される句集)『ちよのはる』の挿絵である。

 鳥山石燕および、彼の一門が中心となって挿絵を担当した『ちよのはる』において、歌麿は、「石要」という当時の画号で、

 待つ春のなすひのつるに茄子哉 

 という句に茄子の絵を添えている。

 歌麿は安永4〜5年(1775〜1776)頃から、「北川豊章」の画号で、黄表紙などの挿絵や、役者絵などを手がけるようになる。おそらく師・鳥山石燕からの紹介で、仕事を得ていたと思われる。

 天明元年(1781)頃からは、「喜多川歌麿」の画号を用いるようになり、歌麿の才能を見出した蔦重のもと、美人画絵師として、一世を風靡していくことになる。


蔦重のもとに寓居していた?

 歌麿と蔦重が、いつ、どこで、どのように出会い、仕事をともにするようになったのかは明らかではないが、歌麿は、天明元年(1781)に蔦重が刊行した黄表紙『身貌大通神略縁記』(みなりだいつうじんりゃくえんぎ/作者は歌麿と同門の志水燕十)の挿絵を任された。この時、「忍岡歌麿」と号している。

 なお歌麿は、現在では「うたまろ」と読まれているが、当時は「うたまる」と読まれていたかもしれないという(湯浅淑子「歌麿の五十年」 浅野秀剛監修『別冊太陽 日本のこころ245 歌麿 決定版』所収)。

 才能を見込んだ人材には、援助を惜しまない蔦重は、歌麿を生活面でも支えたようである

 前述の『浮世絵類考』には、歌麿が蔦重の元に寓居していたことが記されており、蔦重が日本橋通油町(中央区大伝馬町)に進出した天明3年(1783)頃から、寛政3年(1791)頃まで、歌麿は蔦重の元に寄寓していたといわれている。


出世作は虫の絵?

 天明期(1781〜1789)は、狂歌が大流行し、蔦重も、狂歌師のグループである「吉原連」に所属していた。

 吉原連には歌麿も参加し、筆綾丸(ふでのあやまる)狂歌名で、狂歌を詠んだ。

 狂歌とは、五七五七七の和歌の形式のなかに、世俗的な機知や滑稽を盛り込んで詠むものである。基本的にはその場で詠み捨てられ、記録を残さない。

 そこで蔦重は、詠み捨てられた狂歌を「狂歌本」として刊行していった。

 蔦重は、天明6年(1786)から狂歌本に絵を加えた「狂歌絵本」の出版を開始し、歌麿は絵画創作の中心的な役割を担った。

 天明8年(1788)に出版された狂歌絵本『画本虫撰』(えほんむしえらみ)では、歌麿が虫にちなむ恋の狂歌に合わせて描いた虫と草花の絵が大評判となり、歌麿の出世作となっている。

 狂歌絵本を通じて、浮世絵師としての歌麿の名は高まった。

 狂歌絵本で成功を収めた蔦重と歌麿は、美人画へと進出していく。


大首絵で浮世絵界のスターに

 天明6年(1786)8月25日、眞島秀和が演じる十代将軍・徳川家治が急死した。後ろ盾を失った、渡辺謙が演じる田沼意次は2日後の27日、老中辞職に追い込まれている。

 天明7年(1787)4月徳川家斉が15歳で十一代将軍に就任し、同年6月、白河藩主となっていた寺田心が演じる松平定信が、30歳で老中首座を拝命。松平定信は、寛政の改革を主導していく。

 改革に伴い、出版物の取り締まりが厳しくなった。

 寛政3年(1791)、蔦重は古川雄大が演じる北尾政演(山東京伝)の洒落本が、禁令を犯しているとし、財産の半分を没収されるという処分を受けている。

 そんな情勢のなか、歌麿は美人画に進出した。

 当時、美人画で人気を博していた浮世絵師は、地本問屋・西村屋が擁する鳥居清長だった。

 全身像で、無表情に描かれていた清長の美人像に、歌麿と蔦重は上半身のみを描く「大首絵」の形式で、表情を強調した「美人大首絵」という新しいジャンルで対抗した。

 寛政4〜5年(1792〜1793)にかけて、『婦人相学十躰』、『婦女人相十品』、『歌撰戀之部』などの美人大首絵が刊行され、大好評を博している。特に、『婦女人相十品』の「ホッピンの娘」は有名である。

 さらに、のちに「寛政三美人」と称される、実在する江戸で評判の美人を名入りで描き、大衆から圧倒的支持を受け、歌麿は一躍、浮世絵界のスターの座に上り詰めた。

 蔦重も浮世絵の売り上げで、経済的に潤っている。


蔦重との関係が冷え込んだ理由は?

 歌麿と蔦重と関係は、寛政5年(1793)、または6年(1794)から、冷え込んでいったとされる。

 その理由は、一説によれば、売れっ子になった歌麿は、他の版元からの勧誘がさらに増えたため、蔦重から遠ざかっていったという。蔦重が、東洲斎写楽の役者絵を優先するようになったのは、そのためだとも考えられている。

 もしくは歌麿が、写楽に強く入れ込む蔦重に反感を抱き、蔦屋から離れたともいわれる(以上、松木寛『新版 蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者』)。


歌麿の処罰と死

 蔦重は寛政9年(1797)、48歳で病没した。

 歌麿はその後も創作を続けるも、文化元年(1801)5月、50日の手鎖の刑に処せられている。手鎖の刑では、両手首に鉄の枷を付けられ、自宅等で軟禁状態となる。

 刑に処せられた理由は、豊臣秀吉の事跡を読本化した『絵本太閤記』を題材として、錦絵『太閤五妻洛東遊観之図』(たいこうごさいらくとうゆうかんのず)を、描いたからである。

 当時、錦絵で、織田信長、豊臣秀吉以降の実在の武士を描くことは禁じられていたのだ(田辺昌子『アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい 喜多川歌麿 生涯と作品』)。

 この刑を受けてから、歌麿は衰弱し、2年後の文化3年(1804)、息を引き取った。

 衰弱した歌麿に会った版元たちは、歌麿の死期が近いことを悟り、「生きているうちに絵を依頼しよう」と踵を接したと伝わる(関根金次郎『浮世画人伝』)。

 この逸話が真実だとしたら、死の間際まで依頼が途切れないことを、歌麿は喜んだのではないだろうか。絵師として、きっと悪くない最期だったと信じたい。

筆者:鷹橋 忍

JBpress

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