『今昔物語集』で知られる高向公輔、女性と通じて還俗させられた僧の前歴から「逸話」が生まれた理由

2025年5月8日(木)6時0分 JBpress

(歴史学者・倉本 一宏)

日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。この連載では藤原氏などの有名貴族からあまり知られていない人物まで、興味深い人物に関する薨卒伝を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像を紹介します。今回は『日本三代実録』より、高向公輔​です。

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蘇我氏の同族である高向氏

 この人が六国史に登場する人のなかで、もっとも面白いかもしれない。ただし、面白いのは卒伝ではなく、後世に作られた説話である。まずは『日本三代実録』巻三十八の元慶(がんぎょう)四年(八八〇)十月十九日己亥条は、次のような高向公輔(たかむこのきみすけ)の卒伝を載せている。

散位従四位下高向朝臣公輔が卒去した。公輔は、右京の人である。少年のころに出家し、黒色の僧衣を着て僧となり、延暦寺に住んだ。真言教を学んで、もっとも教義に精通し、阿闍梨となった。仁寿(にんじゅ)年中、徴されて東宮(惟仁[これひと]親王。後の清和[せいわ]天皇)に侍奉した。ひそかに乳母に通じた。事がやがて発覚した。太政大臣忠仁公(藤原良房[よしふさ])がこれを聞いて、遂に還俗させた。比叡山中のすべての僧たちは、その仏法を受けるに足る能力を愛し、甚だ嘆いて惜しんだ。貞観(じょうがん)元年三月二十六日、従五位下を授けられ、皇太后宮大進となった。貞観八年、式部権少輔に遷任された、貞観九年、位を増して従五位上となった。この年、権少輔を改めて正官の式部少輔になった。貞観十六年、正五位下に叙され、元慶元年、従四位下に至った。遷任されて讃岐権守となった。卒去した時、行年は六十四歳。

 高向氏というのは、馬子(うまこ)の世代に分かれた蘇我氏の同族であるが、稲目(いなめ)・馬子といった本宗家との具体的な系譜記載がないことから、蘇我氏になれなかった元葛城(かずらぎ)集団であった可能性も考えられる。河内国錦部(もと石川)郡高向(大阪府河内長野市高向)を本拠とした氏族で、『常陸国風土記』に「坂東惣領」として大化年間に常陸における新郡の建置にあたった「高向大夫」や、乙巳の変で決定的な役割を果たし、「難波朝廷(なにわのみかど)の刑部尚書(ぎょうぶしょうしょ)」に拝された国押(くにおし)、八世紀初頭に中納言に上った麻呂など、有力な中央氏族であった(倉本一宏『蘇我氏』)。

 しかし、それ以降は五位程度の官人を出す中級氏族としての姿しか見えなくなる。平安時代に入ると、氏族としての地位はますます低くなり、永継(ながつぐ/弘仁十四年、従五位下)と公輔(元慶四年、従四位下、中宮大進・式部少輔)が見えるに過ぎなくなる。この公輔が高向氏として見える最後の中級官人ということになる。なお、摂関期の『権記』や『小右記』には、下級官人である随身や相撲人として高向則明(のりあき)と高向公方(きみかた)の名が見える。

 なお、大化改新政府で国博士となった高向玄理(くろまろ)は、高向史(ふひと)氏で、旧姓は渡来系の漢人(あやひと)であり、別の氏族である。

 公輔は、弘仁(こうにん)八年(八一七)の生まれ。右京の人で、初名は桑田麻呂(くわたまろ)といった。少年時代に出家して湛慶(たんけい)と称して延暦寺に住した。円仁(えんにん)の弟子となって真言を学び、教義に精通して阿闍梨にまで進んだ。仁寿年間(八五一−八五四年)に皇太子惟仁親王に近侍したが、惟仁親王の乳母との密通が露見し、太政大臣藤原良房にその学識を惜しまれて還俗させられ、公輔となった。比叡山の僧たちは僧としての資質に優れた湛慶の還俗を甚だ歎き惜しんだという。

 貞観元年(八五九)に従五位下に叙爵され、翌貞観二年(八六〇)に藤原明子(めいし)の皇太后宮大進に任じられた。この明子というのは良房の女で惟仁親王の生母であり、公輔はその「前歴」にもかかわらず、よほど良房に信頼されていたのであろう。

 貞観八年(八六六)に式部権少輔、貞観九年(八六七)に式部少輔に任じられ、位階も元慶元年(八七七)には従四位下にまで上った。

 その後は出世することなく、時期は不明ながら讃岐権守に遷任され、元慶四年(八八〇)に六十四歳で卒去したのである。

 これだけでも変わった経歴であるが、その「前歴」を基に尾鰭を付けた『今昔物語集』巻第三十一「湛慶阿闍梨、還俗して高向公輔と為る語第三」の不思議な霊異譚である。

 湛慶阿闍梨が不動尊に仕えて勤行していたとしころ、夢の中に不動尊が現われ、「お前は前世の因縁で尾張国のしかじかという者の娘に通じて夫婦となるだろう」と告げた。
 湛慶はそのことを嘆き悲しみ、「我はどうして女と通じることがあろう。だが、その教えられた女を探して殺し、心安く過ごそう」と思い、尾張国ヘ行った。そして十歳ほどのその女を探し出して、その首を掻き斬った。その後、湛慶は修行を続けていたが、ある時、藤原良房の加持祈祷に召されたところ、若い女が出て来た。湛慶はこの女を見ると深く愛欲の情を発し、ひそかに口説き落として、遂に情交してしまった。
 このことは、隠していても広く知れ渡るところとなった。湛慶は、不動尊に教えてもらった女は殺したのに、このように思いがけない女と情交するとは不思議なことと、女の首を見ると、大きな疵がある。湛慶が問うと、女は自分が殺したと思っていた娘であった。湛慶は深い宿世を悟り、泣く泣く女に事情を語ると、女も感動した。そして永く夫婦として暮らした。良房は、湛慶が破戒僧になってしまったとはいえ、その和漢の諸道を極めた才能を惜しみ、還俗させて、高向公輔とし、朝廷に仕えさせた。

 あまりに尾鰭を付けすぎたという感じであるが、史実としての公輔の「前歴」と還俗を、面白おかしい説話に仕立てたものであろう。説話というものがどうやって形成されるかのサンプルでもある。

 この説話は、いかにも不思議な因縁譚に見えるが、史実としても、湛慶が女性と通じたという事実が、まずはじめに起こったのであり、その言い訳として、不動尊の夢告げが後から付会されたと考えるべきであろう(湛慶が自分で考えたのか、良房が関与しているのか、後世の伝説なのかはわからないが)。つまり、夢告げは、皆に都合よく利用されたというわけである。

 なお、三百年以上を経た平安時代後期、九条兼実(くじょうかねざね)の記録した『玉葉』仁安三年(一一六八)三月十四日条にも、兼実が藤原長光(ながみつ)から聞いた話として、ほぼ同様の話が記されている。長光は、藤原公雅(きんまさ)が「公輔」と改名したことを批判し、この名には宜しくない先例があるとして、高向公輔の例を挙げたものである(小原仁「高向公輔(惟修、湛慶)説話の伝承寸感」、小原仁編『変革期の社会と九条兼実』所収)。

筆者:倉本 一宏

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