「死んでもお墓なんていりません」安楽死も議論すべき…田嶋陽子(84)が提唱する《健康な死に方》とは?

2025年5月21日(水)12時0分 文春オンライン

〈 「何歳からでも人生は輝く」84歳になった田嶋陽子が“今さら始めても遅い”を一刀両断するワケ 〉から続く


「フェミニズム」という言葉が当たり前のように使われるようになった昨今。1990年代に、フェミニストとして『笑っていいとも!』や『ビートたけしのTVタックル』に出演した田嶋陽子さんが受けた逆風は、現在とは比べものにならないほど酷いものでした。


 現在、84歳になった田嶋さんが考える“理想の人生の終わり方”はどのようなものなのでしょうか。著書『わたしリセット』から一部抜粋して紹介します。(全3回の3回目/ 最初から読む )



田嶋陽子さん ©文藝春秋


◆◆◆


“死に方”も自分でデザインしたい


 自分がどんな人生を送りたいかが分かれば、それにあわせて死も人生設計のなかに組み込めるようになります。私は自分の死を自分でデザインしたいんです。これまで人生を自分で選択しながら生きてきたんだから、死に方も自分で選択させてほしい。死は自然に任せるという考え方もあるでしょうが、自分の人生はこれまでのように自分でケリをつけたい。それが私の率直な思いです。


 今は寿命なんてあってないようなもの。最先端の医療によって、寝たきりのままで何年も生かしておくことができる。もはや神が人間の寿命を決めるというより、人間が人間の寿命を決めています。だったら、どう死ぬかも自分で自由にさせてほしい。あくまでも自分で主体的に決めたいのです。日本では安楽死が認められていませんが、もっと社会が関心をもって議論すべきです。もちろん、悪用される危険性もありますから、濫用を防止する法律をつくって、つねに検証できるチェック機能もなければなりません。そうやって知恵を絞れば、実現できないことではないと思います。


 今の私は、毎日が死んで生きての繰り返しのように感じています。1日よく働いて、夜にお酒を飲んでベッドに入ると、「このまま目があかずに死んじゃうかもしれない。それでもいいか」と思いながら眠りにつきます。そして朝になって目が覚めると、「ああ、今日も生きてるな」と思うわけです。毎日が生まれ変わって、新しい1日がはじまる。そうやって死と再生を繰り返しながら、いつの日にか目の覚めない朝がやってくる。これが「健康」な死に方のような気がしています。


 私はまだまだやりたいことがありますから、未練を残したまま死にたくありません。だから、病気で死ぬとすれば、ちゃんと告知を受けて、残りの時間で自分が納得できるように目一杯生きたい。不慮の事故の場合はどうしようもありませんが、それでも日々を充実して生きていれば、多少は後悔を残さなくて済むと思います。


 いつかベッドで眠ったまま、本当に目があかずに死んでしまうかもしれない。だから、死は夢を忘れた熟睡のようなもの。めいっぱい生きて、くたびれたまま夜眠るようにして死んでいきたい。そうやって命を使い切って死ぬことこそ大往生と言えるでしょう。


お墓なんてまっぴらごめん


 私は死んでもお墓なんていりません。田嶋家のお墓には父も母も入っていますが、自分は入ろうとは思いません。冷え性ですから、あんなに狭くて冷たい石のお墓に閉じ込められるのは、まっぴらごめんです。


 私の理想は遺体をくるんでもらって、そのまま海に放り込んでもらうこと。以前インドネシアのバリ島でシュノーケリングをしたとき、海の底がとてもきれいで、静かでした。魚たちもきれいで、泳ぎ回ってる姿を見ているだけで、あっという間に時間が過ぎていきます。生きてる間にさんざん魚のお世話になったわけですから、死んだら魚たちにお返しがしたい。魚たちに遺体をチュンチュンつついて食べてもらって、「ああ、くすぐったい」と思いながら朽ちていけたら最高です。


 それが無理なら、せめて焼け残った骨や灰を海にまいてほしい。近ごろは海に散骨してもらうことがニュースになりますが、あれは一部だけをまいているのでしょう。私は全部まいてほしい。その夢が実現するか分かりませんが、少なくとも自分が死んだらこうしてほしいということを言い残しておかないといけませんね。


 私がお墓を嫌うのは、お墓が家と切り離せないものだからです。お墓を守るといっても、結局は男系の家を守るためのもの。「○○家代々の墓」というのがまさに家意識を反映しています。先祖をまつるといっても結局は男ばかり。女は嫁として男の家に取り込まれてしまいます。フェミニズムの立場から見ると、日本の墓は家父長制の象徴なのです。


 にもかかわらず、いつもお墓を掃除したり、お花を供えたりしているのは女です。ここでも男たちのお墓を守るために、女が奉仕させられている。死んだ後にまで、女が男たちに縛られることはないのです。


“家”に縛られないお墓があってもいい


 私は先祖に感謝する気持ちまで否定するつもりはありません。私のなかにも、祖父や祖母をはじめとして自分の命につながる人々に「ありがとう」と思う気持ちがあります。また、自分の先祖はどんな人だったのだろうと関心を持ったこともありました。でも、お墓というかたちだけが、先祖を大切にすることにはならないと考えているのです。


 私はお墓参りをしませんが、部屋には父と母の写真を飾っています。そして毎日、その写真に向かって話しかけています。年に1回、お墓参りをしてお花を供えることだけが供養の仕方ではないと思う。お墓に行きたい人は行けばいいでしょうが、それは強制されるべきものではありません。死んだ人とは、人それぞれのつき合い方があるはずです。お墓でなくても、その人を偲ぶものが指輪ひとつ、着物の切れ端ひとつあればいい。何だったら物に頼らなくてもいい。


 私は三回忌や七回忌のような法事も嫌いです。あれは、亡くなった人を忘れないようにするための儀式でしょう。本当に大切な人のことは忘れないはずですから、そもそも必要ありません。


 今はお墓が必ずしも馴染みのある場所にあるとはかぎらない。自分たちが暮らしている街から遠く離れたところにあるケースもあります。だからといって、近所に新しいお墓を建てようとすれば、それだけでたくさんのお金がかかります。死んだ後も誰かがお墓の世話をしなければなりません。はたして、そこまでしてお墓にこだわらなければならないのか、私は疑問を感じます。


 たとえお墓をつくるにしても、家単位である必要はないでしょう。個人個人のお墓があってもいいし、家族でなくても親しい人と一緒に入るお墓があってもいい。石のお墓をやめて、遺骨を入れたペンダントをつくってもいい。家の思想から離れたら、お墓をもっと自由に発想できるはずです。


 日本人がお墓にこだわるのは、個として自立していないからかもしれません。家の呪縛から解放され、それぞれが個として成熟すれば、死後の対処についても個を中心とした考え方に変わってくるでしょう。葬儀もお墓ももっと自由に。死んだ後のことも、私たちは主体的に選べるようになればいいと思っています。


(田嶋 陽子/文春新書)

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