「お前のような顔はうちの家系にいない」と罵られ…田嶋陽子(84)が振り返る“厳しすぎる母”からのいじめ

2025年5月21日(水)12時0分 文春オンライン

「フェミニズム」という言葉が当たり前のように使われるようになった昨今。1990年代に、フェミニストとして『笑っていいとも!』や『ビートたけしのTVタックル』に出演した田嶋陽子さん(84)が受けた逆風は、現在とは比べものにならないほど酷いものでした。


 幼少期には母の苛烈な教育に苦しみ、それでも「母に愛されたい」と願い続けた彼女が、46歳で母と和解するまでにはどんな道のりがあったのか。田嶋さんの著書『わたしリセット』を一部抜粋して紹介します。(全3回の1回目/ 続きを読む )



田嶋陽子さん ©文藝春秋


◆◆◆


戦時中に経験した“屈辱的”な居候生活


 私のいまの生き方は母との葛藤から生まれたと言っても過言ではありません。母は世間、すなわち男社会の代弁者でした。母はよく「そんなことをすると世間様に笑われるよ」などと、「世間」を出して私を牽制しました。


 そんな母に対して自己主張できるようになり、ようやく解放されたのが46歳のとき。それ以来、倍の92歳まで生きると決めています。偶然にも、その母が亡くなったのが92歳でした。今も私の部屋には母の写真が飾ってあります。


 1941年に岡山で生まれた私は、父の仕事の都合で半年後に満州へ連れていかれました。その後、朝鮮に転勤になりましたが、父はそこで召集され、母と私は日本に引き揚げて親戚の家を転々とする居候生活がはじまりました。


 母は手に職がなく、食糧難の時代ですから、どこに行っても人に食べ物をねだらなければ生きていけません。それがどれほど屈辱的なことだったか。


 父の実家に居候していたとき、みんなのお膳には魚の切り身があるのに、母と私にだけないことがありました。私は子どもだから「おかあちゃん、あたしもおさかな食べたい」とねだると、母は私の頬をピシャッと平手打ちして、「黙って食べなさい」と怒りました。戦争中はそんなことの繰り返しでしたね。


 母は手に職をつけたくても、幼い私を置いていけないので、勉強に行けなかったみたいです。母はそのことをとても悔しがって、何度もその話を私に聞かせてくれました。疎開体験を語るとき、いつも嗚咽していましたね。母の話を聞くうちに、「自分の食い扶持は何がなんでも自分で稼ぐ」という思いが、私のなかで自然に芽生えていきました。


 一度は父の戦死通知が届きましたが、終戦後しばらくして、父が南方の戦地から奇跡的に帰ってきました。私は父の顔をすっかり忘れていましたから、「変なおじちゃんが来た」と叫んだそうです。ちょうど母に再婚話が持ち上がっていて、母はすごく嫌がっていましたから救われました。


「逃げたら母の病気が悪くなると思った」


 久しぶりに家族が勢ぞろいし、父の実家に近い静岡県沼津市に居を移しました。父は朝早くから夜遅くまでモーレツに働き、酒屋を開店します。7歳年下の弟も生まれ、ようやく幸せな暮らしがはじまるはずでした。ところが、戦争の苦労がたたったのか、母は脊椎カリエスという病気にかかります。


 脊椎カリエスは結核菌が脊椎に感染して起こる病気で、当時はまだ治療薬がありませんでした。骨が溶けて流れ出るので、膿を注射器で抜いて、毎日ガーゼを替えなければなりません。母はベッドにしつらえた石膏製のコルセットのなかで痛みに耐えながら、体を動かすこともできず、その状態で数年を寝たきりで過ごしました。


 母はまだ30代でしたから、そのときの絶望はどれほど深かったことでしょう。私は母の病気回復祈願のために毎朝4時に起きて遠くの山寺にいわゆる「寒参り」をし、将来は母の病気を治すために医者になると誓いました。


 父は献身的に母の看病をしました。物がない時代にもかかわらず、母に食べさせるためにバター一口、卵1個を手に入れようと駆けずり回り、金に糸目をつけずにあらゆる民間療法を試しました。


 わが家の生活はどうしても病気の母と幼い弟が中心になります。そんななか、私は自分だけ家族の輪から外されているような疎外感を味わっていました。もっと父と母に愛されたかった。


 母は死を覚悟していたと思います。自分がいなくなっても、ひとりで生きていけるように私を厳しくしつけました。学校から帰ると、母は私をベッドの横に座らせて勉強させました。


 教科書が暗記できないと、二尺ものさしでビシッと叩かれる。教科書を引き裂かれて、窓から放り投げられたこともありました。母は寝たきりですから、母のおしおきから逃げることもできたのでしょうが、逃げたら母の病気が悪くなると思うと、逃げられませんでした。


「お前のような顔はうちの家系にいない」


 母は完璧主義だったのです。自分が教育を受けられなくて苦労したので、私を同じ目にあわせるわけにはいかないと、焦りがあったのかもしれません。でも、私は母に憎まれていると思っていました。


 母が「おまえは木の股から生まれたんだよ」と言ったときも、冗談に思えなかった。小学4年生のとき、継母にいじめられる少女の物語を書き、そのなかに自分の気持ちを投影させました。それが見つかったときには、「親不孝者」と泣かれました。


 母に「おまえがかわいいから、厳しくするんだよ」と言われても、その言葉は私の心に届きませんでした。今から考えると、それは愛という名のもとに行われた「いじめ」だったと思います。でも、母に愛されたい私は、じっと我慢するしかありませんでした。


 それだけ厳しくしつけておきながら、母からはよく「勉強ばかりできたって、女らしくしないとお嫁にいけないよ」と言われました。当時は、女の唯一の幸せが結婚でしたからね。結婚できない女の人は陰口を言われて、世間からつまはじきにされます。子どもを産めないと親戚中からいじめられたり、実家に帰されたり、そんな悲劇ばかりでした。


 私は生まれながら体が大きくて元気だったから、親はあわてたのでしょう。父は昔はハンサムだったらしく、母も小さな顔でかわいかった。だから、「おまえのような顔はうちの家系にいない」って。弟は母に似てかわいかったので、私の赤い着物を着せて、「2人が逆だったらよかったのに」とため息をつかれたものです。


「おまえみたいな大足だとお嫁にいけないよ」、そんな言葉も浴びせられました。母は私が「女らしく」なるようにと、一挙手一投足にダメ出しをしました。


「勉強して自立しなさい」と言いながら、「女らしくしてお嫁にいきなさい」と言われるわけですから、赤信号と青信号を同時に出されていたような状態です。要するに、今でいうダブルバインドですね。そのことが私を追いつめ、だんだん自分の気持ちを自由に表現できなくなりました。怒りも悲しみも寂しさも全部、心の奥底に抑圧してしまいます。


 夜中になってみんなが寝静まると、トタン屋根の上にのぼって、月を見ながら泣いていました。

〈 「何歳からでも人生は輝く」84歳になった田嶋陽子が“今さら始めても遅い”を一刀両断するワケ 〉へ続く


(田嶋 陽子/文春新書)

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