武市半平太が率いる攘夷別勅使の江戸到着後の動向、土佐長州両藩に亀裂が入った「梅屋敷事件」の真相とは

2025年5月21日(水)6時0分 JBpress

(町田 明広:歴史学者)


攘夷別勅使の江戸到着

 文久2年(1862)10月28日、正使を三条実美、副使を姉小路公知とする攘夷別勅使の一行は、武市半平太らの随行員を伴って江戸に到着した。麻疹に罹患した14代将軍徳川家茂に代わり、老中らが品川まで出迎えた。

 早速、三条は攘夷実行を求める勅書を家茂に授与した。日本を攘夷論に統一し、全国の大・小名に布告すること、また、どのように外国の要求を拒絶するのか、大至急議論を尽くして方策を定め、攘夷を実行することを要求したのだ。天皇の意向を伝える沙汰書も2通あり、蛮夷拒絶(攘夷実行)の期限を天皇に奏聞すること、御親兵を設置することが幕府に伝達された。

 これらは、既に述べた土佐藩主山内豊範の名で朝廷へ出した建白草案(文久2年閏8月)に記載されており、武市の策略である。つまり、今回の攘夷別勅使は、武市が発案し主導したものである。まさに、こうした攘夷実行に向けた動向において、武市は人生の絶頂期を迎えたのだ。


梅屋敷事件の勃発

 将軍家茂の麻疹が治癒せず、勅使三条実美らとの対面は遅延していた。11月13日、この状況の打破を目論んだ久坂玄瑞・高杉晋作ら松下村塾グループは、横浜でのイギリス公使襲撃を計画した。久坂からこの計画を聞き及んだ武市半平太は、三条に密告したため、驚いた三条は急いで長州藩世子・毛利定広に連絡した。さらに、山内容堂からも定広に伝達があったため、ことは重大な事態に発展したのだ。

 久坂らの驚嘆すべき計画を知った定広は、それを早急に阻止する必要に迫られ、まずは藩士11人を派遣し、自らも説得のため出向き、連行されてきた久坂らを梅屋敷(品川宿と川崎宿の中間に位置した休み茶屋と称する休憩所)で説諭した。武市と谷干城は15人の下士を率いて現場へ直行したものの、久坂らは連れ戻された直後だった。

 その後、心配した容堂が派遣した4人の土佐藩上士らと長州藩士らは梅屋敷で酒宴となり、酔った周布政之助が容堂を非難誹謗したことから、土佐藩士との間で一触即発な雰囲気となった。具体的な非難誹謗の内容であるが、「容堂公は我々疑い奉る処余り有り、御才識過候」(『武市瑞山関係文書』)「近比之御周旋之有様佐幕之御模様、決而朝命行われ間敷」(『寺村左膳日記』)などであった。

 これによると、容堂は長州藩を疑い過ぎであり、才識があり過ぎると揶揄し、また、最近の周旋は幕府寄りであって、決して朝廷の命令は行なわれないと非難している。

 不穏な雰囲気を察知した高杉晋作は機転を利かし、周布を逃がしたものの紛糾が続き、翌14日、定広が容堂に直接謝罪して落着した。一方で、4上士とは別にその場にいた、土佐勤王党の間崎哲馬らを傍観した罪で、切腹させるか否かの問題にまで発展した。しかし、武市が容堂を取りなして不問に付された。いずれにしろ、土佐藩と長州藩には大きな亀裂が入ったことは間違いない。


勅使の周旋・帰京と土佐藩・武市の動向

 文久2年11月27日、江戸に到着して1ヶ月経過後、ようやく勅使は江戸城に登城した。武市半平太は、儀礼面で不明瞭な天皇と将軍との君臣関係をはっきりさせること、つまり、将軍が天皇の臣であることを天下に示す工作をした。将軍徳川家茂は、自ら玄関に三条実美を出迎えて、大広間上段の勅使に対し、会釈があるまで中段に着席するなど儀礼を改善したのだ。容堂も、「大君英明、年来之格例ヲ御破り、君臣之義明白ニ成らせらる」と家茂を高く評価した。

 12月5日、勅書へ回答書が渡された。御親兵については保留としつつ、奉勅攘夷を謳い、攘夷実行の時期や方策については、明春の上洛時に回答する旨を約束し、「臣家茂(花押)」と署名した。 将軍家に対する天皇の優位性を明示したことになり、武市の思惑通りの展開となったのだ。前日4日、家茂の勅使饗応に武市も重臣として随従し、家茂に謁見までしている。武市は妻富子への手紙で、簡単に事実を告げたのみで特別な感慨を示さなかったが、大きな満足感と自尊心の高揚はあったのではなかろうか。

 江戸出発の前日である12月6日、武市は松平春嶽に謁見した。これは、4日の会見予定が延期されたことによった。既に春嶽が出発の時間のため、挨拶のみとなったことから、家臣島田近江に意見を開陳した。公武合体が実現している体であるが、朝廷の幕府への嫌疑は一朝一夕に起こったものではなく、攘夷別勅使派遣を繰り返しても埒が明かず、真の公武合体は全く無理筋であると主張した。そして、この上は一刻も早く将軍が上洛して、「真実の御合体」を要望したのだ。

 ちなみに、武市と坂本龍馬との接点について、11月12日、武市は久坂玄瑞・高杉晋作らともに万年屋で会飲をした。実は、龍馬も同席している(「久坂日記」『久坂玄瑞全集』)。また、龍馬は18日、蒲田梅屋敷事件(11月13日)に関して、中橋寒菊亭で催された郷士会合に出席している。脱藩後も、龍馬は藩士と行動しており、武市も龍馬と度々面会していたことが推察される。


間崎哲馬・平井收二郞らの「密策」

 攘夷別勅使の京都への出発の直前、山内容堂は間崎哲馬・弘瀬健太に帰国命令を発した。理由は、土佐の人心を奮い起こすこと、また、その途中で中川宮らに江戸の政情を伝えるためとされた。間崎らは12月7日に江戸を発ち、13日には着京した。

 直ちに平井収二郎と会談し、中川宮に謁見して「密策」を言上した。間崎らは中川宮に令旨を懇請したが、その内容は「時勢逼迫、能く余之意を以て景翁(元藩主山内豊資)を諭す、容堂をして又後を顧みるの憂い無くすべし」(「隈山春秋」)というもので、山内豊資をして容堂を鼓舞し、即時攘夷路線での藩政改革を促すものであった。

 12月17日、間崎・弘瀬は令旨を持参して出京し、帰藩後、容堂の活動および令旨の内容を要路に伝達した。その結果、豊資から令旨を尊重する訓示が出されたのだ。この段階では、平井らの思惑通りの展開となった。

 12月23日、平井の「當時殿下(関白近衛忠煕)辞職、此機不可失、請任其望而闕其職、可以置太政官也」 との発言に対し、中川宮は「汝暫勿言、今言之、則必破事矣、疇昔(ちゅうせき)島津三郎亦言削藤氏之権、而余既已治之心矣、俟三郎與汝之容堂、而後可謀之也、汝必秘而勿言之」と回答した。

 宮は島津久光からも「削藤氏之権」 、つまり摂関制廃止を持ちかけられ、既にその決心であり、久光と容堂が上京後、それを謀ると発言した。平井の「太政官」の主意は、摂関制を廃した天皇親政にあったが、宮は自身が摂関家に代わって中央政局を執り、幕府の存在も認めながらも、それを圧倒する皇威伸張を企図したのだ。

 次回は、武市の帰京と大抜擢人事、久坂玄瑞らによる三事(言路洞開・攘夷期日決定・人材精選)強請と武市の役割、容堂による土佐勤王党・弾圧の開始、武市失脚の萌芽について、詳しく紹介したい。

筆者:町田 明広

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