王となった伝説も?!アユタヤに渡り義勇隊リーダーとして活躍した「山田長政」とは

2024年5月20日(月)16時0分 tocana


 16世紀後半、ビルマとの戦争が終結し平和となったシャム(現タイ国)の都市アユタヤでは貿易が発展していき、世界各国から貿易船が訪れる貿易港となって繁栄した。タイ人よりもタイ以外の国の人々が多かったとも言われているアユタヤには、琉球から貿易船が訪れて以来日本とも関係を深め、多い時には1500人もの日本人が住んでいたと言われる日本人町も存在していた。


 1612年ごろ、日本から朱印船に乗って山田長政という人物がアユタヤの日本人町にやってきた。彼は、駿河国(現静岡県)で紺屋を営む家に生まれ、沼津藩の駕籠かき(駕籠を担ぐ仕事)をしていた。武士に憧れを持ち出世に向けて高い意気込みを見せていた長政であるが、関ケ原の戦いによって天下泰平の世が訪れることを悟ったことで武士を諦め、一念発起し商人としての成功を目指すようになったという。


 長政は、日本に送るための蘇木(赤色の染料に使用する木)や鹿皮の買い付けを行ない成功することとなるが、それと同時に日本人義勇隊の隊長も務めていた。外国人町を防衛するために設置された義勇隊でも、特に日本人の義勇隊は元武士の者も多く集まっていたため、その強さには定評があったと言われている。その強さは、いざという時にアユタヤの傭兵として活躍させられていたほどであったという。


 義勇隊隊長として2度に渡るスペイン艦隊の侵攻を防いだことでアユタヤ王朝から絶大な信頼を獲得した長政は、1628年には役人として最高官位である「オークヤー」として任命され、軍神を意味する「セーナーピムック」という名を与えられるほどの大出世を果たした。そして、その後には王女と結婚したとも言われているのである。


 しかし、長政はその後、王ソングダムの死によって発生した王位継承争いに巻き込まれることになってしまう。結果として、彼はその統率力や軍事力を脅威とみなした何者かの手によって1630年に毒殺されてしまった。


 長政は、シャム王国の王となったと説明されることもある。しかしながら、王女との結婚を含めシャム側からはそのような記録が見つかっていないという主張もあるため、これが事実であったかについてははっきりとしていない。


 一説では、長政はソングダム王の遺言によって王位を継承した元王子チャーターの後見人となったという。しかし、チャーターはその後、対立していた元大臣のシーウォーラォン(のちにカラホムと改名)によって処刑されてしまい、彼が王位を奪ったことで長政はアユタヤから追放されてしまったとも言われてる。彼が毒殺によって命を落としてから5年後の1635年、日本からの朱印船派遣が打ち止めとなったために日本人町は徐々に衰退し、さらには反乱を恐れたカラホムによって焼き討ちされ日本人町はついに消滅してしまった。


 日本では、その後開国となるまで長らく忘れ去られた長政であったようだが、現地タイでは今でも影響を与えている日本人として認知されており、「ヤマダ」と言えば日本人町を表す言葉として通じるほどであるという。さらには、実子も殺害されており子孫が存在しないと言われていながら、「長政の子孫だ」と名乗り出る者も少なくないという。


 異国の地で商人として成功しただけでなく、王朝へ尽力を注いだ日本人がかつて存在していたということを、今一度振り返ってみるのもよいだろう。


【参考記事・文献】
柿崎一郎『一冊でわかるタイ史』
山田長政 17世紀にタイで活躍!! アユタヤ日本人傭兵隊リーダーの歴史とは!?
山田長政 遠く離れた異国の地で王となった日本人
17世紀タイで活躍した「山田長政」強国を凌いだ手腕とその子孫はいま?


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