鳥の声、バイクの音、そして妻が台所で朝食を作る音。「朝になると聞こえてくるのが当たり前」と思っていた音のひとつが突然消えてしまった
2024年5月29日(水)12時30分 婦人公論.jp
(写真:『妻より長生きしてしまいまして。金はないが暇はある、老人ひとり愉快に暮らす』より)
多くの夫婦は、最後にはどちらか片方が先立ち、どちらか片方が残されることに。そして夫を亡くした妻の余命にはさほど変化が無いとされる一方、妻を亡くした夫の余命は、平均に比べて約3割も短くなると言われます。そんななか、奥さんに先立たれたのちに作成した動画「ようやく妻が死んでくれた」が853万回再生を超え、大きな反響を生んだのがぺこりーのさんです。今回そのぺこりーのさんの著書『妻より長生きしてしまいまして。金はないが暇はある、老人ひとり愉快に暮らす』より一部を紹介します。
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あの頃の音
誰でも、朝になると聞こえてくる音があると思う。
みなさんが聞いている朝の音とは、どんな音だろうか。
住んでいる地域や働いている時間帯、あるいは家族の状況などで、ずいぶん違う音を聞いている気がする。
波の音が聞こえたり。鳥の声が聞こえたり。新聞配達のバイクの音が聞こえたり。
普段は何気なく聞いている朝の音だが、それが突然聞こえなくなったらどうだろうか。
懐かしい島の音
私が小さい頃育った島では、朝になると船のエンジンの音が聞こえていた。そんなに海に近いわけでもなかったのに……。
いい音だった。
鳥の声も聞こえたし、風に揺れる木々の音も聞こえた。田舎だったから、たくさんの自然の音で目を覚ましていたように思う。
都会には都会の音があるように、田舎には田舎の音がある。懐かしい島の音だ。
今の音
あれから60年が経った。今、聞こえてくる朝の音はこんな音だ。
早朝5時を過ぎると、世田谷線の始発電車が走る音から一日が始まる。ガタンゴトンと、重そうな車体が走る音だ。最新のテクノロジーとは無縁のようなこの電車は、大きなおもちゃのようで実に愛らしい。その大きなおもちゃから出る音の間隔からして、スピードが出ていないのがよくわかる。
カメのように鈍(のろ)いから、事故が起きたという話は未だ聞いたことがない。
Macのラップトップを開くと、いつものジャーンという音。やかんのお湯が、シュウシュウと音を立てて沸騰したぞと言っている。そのお湯でコーヒーを淹れながら、テレビをつけると、めざましくんが「5時55分」と時刻を告げている。
今日は不燃物ゴミの収集日か? 誰かが、ガラガラと缶と瓶を捨てにいく音がする。
8時を過ぎると、向かいの部屋の小梅ちゃんという女の子が保育園に行く時間だ。小梅ちゃんは、毎朝保育園に行く時間になると大騒ぎをする。小梅ちゃんはどうやら保育園をあまり気に入っていないらしい。
部屋を暖めてくれるエアコンのファンの音。パチパチとパソコンのキーを叩く音。いつもと変わらぬ日常の朝の音だ。いろんなところに引っ越しをしたが、住んだ場所それぞれに特徴のある朝の音があった。音の記憶は、その風景と相まってなぜか忘れることがない。
朝の音から消えた音
しかし、ひとつだけ朝の音から消えた音がある。それは、妻が台所で朝食を作る音だ。
まな板の音。お味噌汁を作る音。卵焼きを焼く音。ご飯が炊ける音。そして、妻の「ご飯できたよ〜」という声……。
当たり前に聞こえていた音は突然消えてしまった。
姿も消え、声も消え、音も消えた。すべての存在が、この世から消えた。死ぬということはこういうことか……。
あの日から、我が家の台所は静かになった。そして、静かになった台所に、今は私が立っている。
※本稿は、『妻より長生きしてしまいまして。金はないが暇はある、老人ひとり愉快に暮らす』(大和書房)の一部を再編集したものです。
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