ADHDの監督が描いた発達障害の生きづらさ『星より静かに』「社会」や「会社」に受け入れられるための努力が必須<簡単には分かり合えない誰か>と繋がることの意味を感じて
2025年5月29日(木)12時30分 婦人公論.jp
(C)ステューディオスリー
1989年に漫画家デビュー、その後、膠原病と闘いながら、作家・歌手・画家としても活動しているさかもと未明さんは、子どもの頃から大の映画好き。古今東西のさまざまな作品について、愛をこめて語りつくします!(イラスト:筆者)
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映画は街頭インタビューから始まる
ADHDをどう思いますか?
映画は街頭インタビューから始まる。
——「最近よく聞きますよね。私の周りにも沢山いると思う」
——「自分もそうなんで。(笑)」
明るくカミングアウトする若者や、肯定的な街の声もある一方で、受け入れがたいという発言もある。
——「仕事だと別に害が在るわけではないですが、気を使わなくちゃいけないから、下に見ている差別はあるかなと。其れを失くせと言われても、現実には難しいと思う」
思わず前のめりで画面を見てしまった。全編を通して静かな作品だが、心に突き刺さるシーンが随所にある。
映画では、自らがADHDだとカミングアウトする映画監督・君塚匠の視線を通したノンフィクションと、其れを挟み込むドラマが交錯している。ドラマ部分も最初はノンフィクションなのではと思ったほどリアルだ。こちらはADHDの夫・佐藤はじめを支える妻・朱美と、ADHDの息子・村木純を理解しようとする母・貴和子の2家族の日常や交流を描き、ADHDとはどんな症状か具体的に描いている。
「発達障害」に悩む人々
映画では医学的な説明をしていないが、ADHD(多動性障害、注意欠陥症)は最近よく話題に上がる「発達障害」の1つである。その症状や当人の性格も多様で捉えがたい。
「障害」とされることを嫌う患者や家族も多く、「障害ではなく甘えだ」と断じられることも多い。
「不注意」以外にも、「自分の興味のある分野には異常なほどの集中力を示す」「運動、特に球技が苦手」「会話、人の気持ちを読むのが苦手」「時間を守れない」「買い物やギャンブル依存になりやすい」「片付けができない」等の特徴があり、「特化した分野での才能が開花すれば、天才的と言えるような業績を残す」ことも報告されている。
「天才型」と言える才能の持ち主を含むのが発達障害なのだが、多くの人々は「生きにくさ」を抱えている。障害手帳を取得でき、就労支援も受けられるが、「障害者枠」になることを嫌い、援助を受け入れない人も多い。実際、日本の就労支援は、発達障害者を受け入れる地盤が整っていない。
イラスト提供:さかもと未明さん
そこに切り込み、自身が感じる生きづらさの視点で映画を製作した君塚匠氏の功績は大きい。発達障害に悩む人々や、その家族にとっては大変有意義な作品だ。発達障害者がよくわからない人にも、是非見ていただきたい。
夫婦の在り方
実は私自身が発達障害者なので、見ていて辛くなる部分もあった。就労支援で紹介される仕事は、単調な作業に限られるのか? 支援途中に連絡が途絶えたまま、自宅アパートで孤独死した人の話も出る。「お宅には子どもは何匹いますか?」等と口にする相談者。面接リハーサルや、就活のために様々な「検定」を勧められる場面を見て、「就職していくのはこんなに大変なのか」と、呆然とした。それぞれの能力のばらつきもありすぎる。これをひとまとめに就労支援することは、そもそも無理だろう。
そんな厳しい現実が続くノン・フィクションの合間に、自然に挿入された2つの家族の「物語(ドラマ)」には、ほっとさせられた。
発達障害の夫と息子を支える妻の朱美と母の貴和子は、彼らの最高の理解者であり、支援者だ。現実として発達障害者が1人で生きていくことは難しく、できるなら理解・支援してくれる家族と暮らすのが一番いい。
しかし、こんなふうに優しく理解してくれる家族に巡りあうことは稀だろう。生みの親ともうまくいかずに家出したり、引きこもりになったりするケースは後を絶たない。はじめと朱美の関係も、「夫婦と言うよりお母さんと子どものよう」と批判されるかもしれない。しかし彼女のように「人の面倒を見ることに喜びを感じる」人もいる。こういう夫婦の在り方も「あり」なのでないだろうか。
「助け合う」社会の実現
1人暮らしの君塚監督は、自宅の生活が苦手で不安げな様子をきちんと見せている。自立する力を身に付ける努力も大切だが、その才能を支える支援者が集まってくれたら、もっといい。苦手な家事能力の獲得に時間をとられて気力を使い果たしたら、才能が委縮してしまう気がするのだ。
私も今の夫がいてやっと表現活動が出来ている。しかし、監督や私のように、「特技」や「才能」で生きる機会を得る人は稀なのだ。そういう殆どの人には、「社会」や「会社」に受け入れられるための努力は必須となる。
実際に「手のかかる」発達障害者だから、「差別するなと言われても難しい」という冒頭のインタビューは、一般人の正直な気持ちだろう。君塚氏の支援者の1人が、「君塚君は、『自分はADHDだから仕方ない』と、言い訳に利用しているところがあるんだよね。そういうところは直さないと、仕事を切られても仕方ない」と、手厳しい意見を寄せる。これも実に的を射たアドバイスだ。
しかし厳しい現実を見据え、このような映画や文学作品を通して発達障害への理解を深めれば、よりよい社会環境を整えていける。
イラスト提供:さかもとさん
町づくりにおいて「身体的なバリアフリー」は相当に進んだ。時代は「心のバリアフリー」を進めるステージに入ったのではなかろうか。
今の社会は「自立」に価値を置き、福祉も「自立支援」という形で行われる。しかし、自分1人で生きていけない人々が沢山いるのも事実だ。だとしたら、「自立」よりも「助け合う」ことに重きを置いた社会の実現へと動いていくべきではないだろうか。
「簡単には分かり合えない誰か」と繋がる
人間は能力にも身体的な条件にもばらつきがある。体が動かない人に支援が必要なのは当然だし、発達障害者のような「普通のことができない」人にも、自然に支援できる社会はより素晴らしいのではないか。其れは「普通の人々」に負担だけを強い、損をさせることとは違うと思う。なぜなら発達障害者には、「普通の人にはできない」ことができる人が多いからだ。
そんな人間の心身の凸凹を見ていると、「すべての不均衡は、人をつなぎ合わせ、社会を繋ぐためにある」のではという気がしてくるが、どうだろう? 体も心も、そのままで自然に繋がれるように不均衡にできているのかもしれない。
冒頭とエンディングでつかわれる糸電話は、私達と社会、そして「繋がれる誰か」との、細いけれども「理解しあえる可能性」のように見える。私達と他者を結ぶ糸は細い。でも耳を澄まして静けさの中で耳を澄ましあえば、自分の気持ちが伝わるかもしれない。誰かの助けを求める叫びを聞き取れるかもしれない。
星より静かに耳を澄ませて、「簡単には分かり合えない誰か」と繋がることが、これからの社会には必要なのだ、きっと。
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