『光る君へ』紫式部の娘・藤原賢子、女房三十六歌仙の一人・大弐三位として活躍、貴公子に愛されキャリアを極める
2024年7月15日(月)8時0分 JBpress
大河ドラマ『光る君へ』第27回「宿縁の命」では、まひろ(紫式部)が、娘を出産した。今回は、この紫式部の娘・大弐三位藤原賢子を取り上げたい。
文=鷹橋 忍
幼くして、父を失う
紫式部の娘・藤原賢子は、長保元年(999)頃に生まれたと推定されている。
紫式部の生年は諸説あるが、仮に天延元年(973)説で計算すると、数えで27歳のときの子だ。
南北朝時代に編纂された諸家の系譜集『尊卑分脈』には、佐々木蔵之介が演じる藤原宣孝の娘として、その名が記されている(母は紫式部と記載あり)。
その宣孝は長保3年(1001)4月25日、賢子が数えで3歳くらいの時に、亡くなった。
母・紫式部は、夫の宣孝の死を契機に『源氏物語』を書き始めたともいわれ(諸説あり)、寛弘2年(1005)か寛弘3年(1006)の年末から、塩野瑛久が演じる一条天皇の中宮・見上愛が演じる彰子(藤原道長と黒木華が演じる源倫子の娘)に出仕した。
宣孝の死から4年、あるいは5年後、紫式部が33歳か34歳ぐらい、賢子が7歳か8歳ぐらいの時のことである。
賢子もまた長じると、母と同じく彰子に仕えた。
彰子に出仕した時期は、賢子が14〜15歳の頃(南波浩校注『紫式部集』)、長和6年(1017)頃(上原作和『紫式部伝——平安王朝百年を見つめた生涯』)など諸説あり、定まっていない。
賢子は、岸谷五朗が演じる祖父の藤原為時が、左少弁を務め、越後守に任じられたことから、「越後の弁」と称されたという(南波浩校注『紫式部集』)。
女房三十六歌仙の一人
彰子に仕えるようになった賢子は、歌人としても活躍し、高く評価された。
家集『大弐三位集(藤三位集)』を残し、母・紫式部とともに女房三十六歌仙の一人に数えられている。
『後拾遺和歌集』巻第十二 恋二に所出する賢子(作者名は大弐三位)の歌、
有馬山 ゐなのささ原風吹けば いでそよ人を 忘れやはする
(有馬山に近くの猪名の笹原で風がそよそよと音をたてるように、私はけっしてあなたのことを忘れません)
は百人一首に選ばれており、ご存じの方も多いだろう。
貴公子たちに愛される
賢子は、貴公子たちとの恋愛でも知られる。
『後拾遺和歌集』巻第十四 恋四には、道長と瀧内公美が演じる源明子の子・藤原頼宗へ送った
こひしさのうきにまきるゝものならはまたふたゝびと君を見ましや
(恋しさが憂さ辛さによって紛れるなら、二度とあなたにお逢いしましょうか。紛れないからこそ、またお逢いしたいのです)現代語訳 校注 久保田淳 平田喜信『後拾遺和歌集 新日本古典文学大系8』より
という歌があり、頼宗と恋愛関係にあったという。
また、町田啓太が演じる藤原公任の子・藤原定頼とは、定頼が蔵人に在任していた寛仁2〜3年(1018〜1019)頃に、親交があったと推定されている(森本元子『定頼集全訳 私家集全釈叢書6』)。
益岡徹が演じた源雅信の孫・源朝任(倫子の異母兄・源時中の子)とも、治安2〜3年(1022〜1023)頃、交際していたと考えられている(服藤早苗 東海林亜矢子『紫式部を創った王朝人たち——家族、主・同僚、ライバル』所収 栗山圭子「第十三章 天皇乳母としての大弐三位——母を超えた娘」)。
賢子の恋は、まだまだ続く。
のちの後冷泉天皇の御乳母の一人に
賢子は、万寿2年(1025)8月に誕生した、東宮(皇太子)敦良親王(父は一条天皇、母は彰子/のちの後朱雀天皇)の皇子・親仁親王(のちの後冷泉天皇)の御乳母の一人に選ばれた。賢子、27歳ぐらいの時のことである。
歴史物語『栄花物語』巻第二十六「楚王のゆめ」では、この時の賢子を、「左衛門督の御子を産んだ者」と称している。
「左衛門督」とは、通説では、万寿2年当時に左衛門督であった、玉置玲央が演じた藤原道兼の二男・藤原兼隆と解釈され、賢子は兼隆の娘を産んだという(上原作和『紫式部伝——平安王朝百年を見つめた生涯』)。
だが、左衛門督は「左兵衛督」の誤りで、賢子の相手は左兵衛督であった、金田哲が演じる藤原斉信の養子・藤原公信だったとみる説もある(萩谷朴『紫式部日記全注釈 上巻』)。
賢子の相手は兼隆だったのか、それとも、公信だったのだろうか。
キャリアを極める
賢子は乳母として親仁親王の養育にあたり、「越後の弁の乳母」、「弁の乳母」などと称された。
親仁親王が13歳で立太子した長暦元年(1037)頃には、東宮権大進の高階成章と結婚。
翌長暦2年(1038)には、為家という男子を出産している(山本淳子訳注『紫式部日記 現代語訳付き』)。賢子は40歳くらいになっていた。
寛徳2年(1045)、親仁親王が父・後朱雀天皇から譲位を受け、後冷泉天皇となると、賢子は典侍に任ぜられ、従三位に叙せられた。
これは中下貴族層の娘としては、キャリアの頂点に達したことになるという(服藤早苗 東海林亜矢子『紫式部を創った王朝人たち——家族、主・同僚、ライバル』所収 栗山圭子「第十三章 天皇乳母としての大弐三位——母を超えた娘」)。
『栄花物語』巻第三十六「根あはせ」では、後冷泉天皇を、「ご気性は大変にご立派で、物腰柔らかでお優しい。人を嫌って遠ざけることもなく、申し分がない。折あるごとに管弦の御遊を催され、月の夜、花の折を見過すこともない。素晴らしいご治世である」と褒め称えたうえで、それは「風流心を持つ弁の乳母(賢子)が、このようなに養育したのであろうか」と結んでいる。
賢子はよき乳母であったのだろう。
大弐三位の由来は?
天喜2年(1054)、夫の高階成章が、受領としては最高の大宰大弐に任じられると、賢子は夫の役職にちなみ、「大弐三位(だいにのさんみ)」と称されるようになった。
賢子も夫・成章の任地である大宰府に、少なくとも二度は赴いたとみられているが(角田文衞『紫式部伝——その生涯と『源氏物語』——』)、成章は天喜6年(1058)正月に、大宰府にて、69歳で亡くなっている。賢子、60歳ぐらいの時のことである。
夫亡き後も、賢子は20年以上、健在であったと考えられている。
賢子の正確な没年は不明だが、永保2年(1082)に、84歳くらいで、亡くなったともいわれる。
これが正しければ、当時としては大変な長寿であり、充実した人生であったのはないだろうか。
ドラマではまだ生まれたばかりの賢子だが、この先、長い人生が待っている。
【藤原賢子ゆかりの地】
●天台圓浄宗大本山 廬山寺
紫式部の邸宅跡とされる地に建つ。
天慶年中(938〜947年)に船岡山に創建され、天正年間(1573〜1593年)に、現在地(京都市上京区)に移転した。
紫式部は現在の廬山寺の境内にあった邸宅で暮らし、ここで娘の藤原賢子を産んだとされる。
筆者:鷹橋 忍