関ヶ原合戦当日、石田三成は「笹尾山」にいなかった?通説と最新研究の矛盾

2023年7月26日(水)6時0分 JBpress

 新刊『戦国大変』が反響を呼ぶ乃至政彦氏。本書の主眼を「戦国の風景と感覚を見えやすくする」と語るとおり、「桶狭間の戦い」「関ケ原の合戦」などその名の知られた戦から「大寧寺の変」「姉川合戦」など歴史の教科書ではなかなか触れられることのない合戦まで、一次史料をもとに「新しい解釈」を提示している。

 今回はそんな「戦国大変」に綴られた戦や出来事のなかから生まれた疑問を、改めて筆者・乃至政彦氏に聞いた。


関ヶ原決戦で石田三成はどこにいた?

 慶長5年(1600)の「関ヶ原合戦」についてインターネットで検索してみると、石田三成を主将とする西軍が横に広がっていて、徳川家康率いる東軍が前に進むかのように並んでいる布陣図が、でてくると思います。じつは、この布陣図は、明治時代に作られて定着したものなのです。

 関ヶ原の戦いにおける石田三成の布陣地は、「笹尾山」だというのが定着しています。ですが、これは明治になって初めていわれたことのようです。

 江戸時代の文献で、「石田三成が笹尾山に布陣した」と書かれた史料は、私の知る限り、ありません。現在、笹尾山は立派に整備されていて、私も、これを見て、「ああ、関ヶ原が一望できて美しいところだな」と思いましたが、どうも三成は、ここにはいなかったらしいのです。

 では、本当はどこにいたのか? 江戸時代の文献を調べてみると、三成は「小関」にいたと書かれています。この「小関」がどこかを調べてみると、現在の地名に小関という「町」があり、三成はこの小関の付近に布陣したのではないか、ということが考えられます。

 その小関のちょうど北側に、笹尾山があるわけです。たしかに江戸時代の文献を見ると、「小関の北に布陣した」と書いてあるものもあります。ただ、その史料をよく見ると、そこが笹尾山だとすると、いろいろ、おかしいところがあるわけです。

 江戸時代の文献には、小関について、「小関山」と書いてあるものもあります。「山」と書かれているのです。現地に行くとわかるのですが、笹尾山は山ではあるけれど、「小関の町」は、別に山地にあるわけではないのです。

 研究者の高橋陽介さんが、江戸時代初期の頃の史料を調べたところ、石田三成の布陣地は全然違っていて、三成は「自害峰(じがいがみね)」に比定できる場所にいた、と書かれているというのです。この自害峰は、笹尾山より2kmほど南の場所にあって、小早川秀秋が布陣したという松尾山が、もう、目の前というくらいに近いところにあります。

 では、小関とは、そもそも、どこなのでしょうか? ある古代の史料に、「関所があって、南北に小さな関がある」ということが、書いてあります。

 関ヶ原は、関所がある場所だから「関ヶ原」となっているわけです。その関ヶ原の大きな関は、不破郡の「不破の関所」があるところです。

 ただ、関ヶ原には、南北に小さな関所があって、そのうちのひとつは、たしかに笹尾山の南側、現在の小関があるところにありましたが、もうひとつ、現在の地名では残ってないところが、自害峰にあったのだろうと思われます。自害峰は、北と南に山が分かれた感じになっているのですが、その北側に、おそらく三成が布陣していて、そのあたりの山のことが、「小関山」と呼ばれていたのだと思います。


笹尾山から自害峰にズレる意義

 石田三成が、自害峰に布陣していたとなると、他の武将たちの布陣地も、現在の通説と矛盾が出てくる可能性があるわけです。

 つまり、石田三成の布陣地が見直されると、たとえば、東軍の何々隊と西軍の何々隊が、真っ先に戦ったとされる場所も、根本から考え直す必要があるのではないかと思います。

 また、石田三成の布陣地が自害峰だとすると、現在考えられている笹尾山の三成布陣地より、2kmくらい南にズレることになります。

 これは、どういうことかというと、布陣地が変わることによって、三成がなにを考えていたのかが変わってくる可能性があります。関ヶ原合戦における三成の立場を、戦場の布陣地から想像し直すことができるわけです。

 石田三成が西軍の総大将であり、東軍(徳川軍)との決戦を志向していたという前提の下であれば、三成は笹尾山に布陣していたとしても、あまりおかしくはないでしょう。

 しかし、石田三成が、もし西軍の総大将ではなくて、一武将であり、徳川家康との大決戦を望んでいなかったとしたなら、三成は別の布陣地にいたかもしれません。逆に言うと、三成が自害峰にいたとすると、三成がどういう立場で、なにを考え、そこに布陣していたのかということから、また新たな物語が見えてくる可能性があるわけです。

 一説によると、三成は松尾山の小早川秀秋が裏切る可能性があるので、秀秋と交渉する、もしくは秀秋を攻めるために、自害峰に布陣していたのではないか、といわれています。これは一つの例でして、それ以外にも、いろんな考え方ができると思います。こういうことから新たな歴史の見方が表れてくるのではないかと思います。

筆者:乃至 政彦

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