【名馬伝説】「大井から来た怪物」ハイセイコー、実は絶対的な強さを持っていたわけではない競走馬が愛された理由

2024年7月30日(火)6時0分 JBpress

(堀井 六郎:昭和歌謡研究家)

昭和歌謡研究家・堀井六郎氏はスポーツライターとしての顔もあります。とくに競馬は1970年から今日まで、名馬の名勝負を見つめ続けてきました。堀井氏が語る名馬伝説の連載です。


ハイセイコーとオグリキャップが築いた「競馬ブーム」二つの時代   

 私が競馬に親しむようになってからすでに半世紀以上が経過していますが、この期間にマスコミが「競馬ブーム」と呼んだ時代を2度経験しています。

 ハイセイコーとオグリキャップ。この2頭の名前は、競馬について関心がなくても還暦以上の方なら記憶の片隅にあるかもしれません。ハイセイコーがマスコミをにぎわせたのが昭和48年(1973)、オグリキャップは平成元年(1989)のことでした。

 この2頭が登場した後、ナリタブライアン、ディープインパクト、オルフェーブル、コントレイルなど実力・人気を兼ね備えた三冠馬や名馬たちが出現しましたが、老若男女を巻き込んだハイセイコーとオグリキャップのあの人気には遠く及ばない、というのが私の実感です。

 それは、ハイセイコーもオグリキャップも無敵ではなかったけれど、競馬の世界を踏み越えて、時代を代表するアイドルとしての存在になってしまったからでした。

 ハイセイコーが漫画週刊誌『少年マガジン』の表紙に登場したのは有名なエピソードですし、オグリキャップに至ってはオグリ人形と称する小型のぬいぐるみ人形まで登場(実はオグリキャップの馬主が販売)、競馬とは無縁の私の母親でさえ、デパートで売っていたからと、いくつも購入したほどでした。


別格だった公営競馬「大井の怪物」

 オグリキャップについては次回紹介することにして、まずはハイセイコーです。私の知人に公営・大井競馬場の調教師がいて、ハイセイコーが中央競馬に移籍する前年、大井競馬場ラストランとなった昭和47年(1972)11月の「青雲賞」には厩舎所属馬が出走、ハイセイコーと一緒に走り3着となっています。

 ハイセイコーとの着差は10馬身近くもあり、数十年後にハイセイコーのことを尋ねた際に「あれは別格」と、その存在を鮮明に記憶している様子がうかがえました。

 このときの馬券は、単勝(勝ち馬を当てる馬券)・複勝(3着以内に入れば的中とされる馬券)とも100円の元返しという圧倒的な人気ぶり。当時の競馬新聞には「ハイセイコーまたも圧勝」「明春、中央に挑戦か」「ユウシオ(中央No.1)より強い!」の見出しが躍っています。

 結局、大井競馬で6戦全勝、2着馬につけた着差が大差(10馬身以上)2回、8馬身、7馬身3回という図抜けたものでした。

 中央競馬と地方競馬の格差を熟知している私の友人が2着馬に7馬身差をつけた前述の「青雲賞」を実際に見ていますが、中央競馬での活躍を確信するほどの豪快な勝ちっぷりだったそうです。


中央エリート馬との対決と下された評価

 明けて昭和48年(1973)3月、中央競馬に移籍したハイセイコーがいよいよ中山競馬場に登場。

「大井から来た怪物」をひと目見ようと、12万人を超える大勢の競馬ファンが押し寄せました。私はテレビの実況中継で見ていましたが、競馬場の異様な興奮はお茶の間にいる私にも伝わってくるほどでした。

 レースのほうは、予想にたがわずハイセイコーが勝利を収めましたが、2着馬との差は1&3/4馬身だったこともあり、勝利よりどれだけ差をつけて勝つかということを期待したファンが大半だったせいか、レース後は少々拍子抜けした雰囲気がブラウン管から伝わってきたものです。

 公営の馬と中央の馬との実力差は歴然としたものがあることは知ってはいても、田舎から突如としてやって来た一匹狼(馬だけど)が都のエリートたちをひれ伏させるというドラマを見てみたかった人々の気持ちが反映されていたのでしょう。

 その後、ハイセイコーは2年間現役生活を続けますが、大きなレースに勝利したのはクラシックレース三冠のひとつ「皐月賞」のみでした。

 後年、ハイセイコーに対しさまざまな評価が下されます。実は早熟血統だったのではないか、大井の馬場はハイセイコーが得意なダート(砂)だったが、中央の芝の馬場は不得手だったのではないか。距離適性も2000メートルくらいまでなら強いが、タイプとしてはマイラー(距離1600)だったのではないか等々。


競馬アイドル第1号、さらばハイセイコー

 現在と違って、当時はまだレースの距離体系も整っていなければ血統を重視する風潮も強くなく、ハイセイコーと同じ父(チャイナロック)を持つ5歳年長の名馬タケシバオーなどは、1200メートルから3200メートルまでのレースに出走、勝利していた時代でした。

 現在は、レース体系も整備され、競走馬の走り方や血統面から短距離系・中距離系・長距離系等に類別し、馬の得意な距離や馬場を優先してレースを選んでいます。もちろん例外もありますが。

 今から50年前のことを振り返ってみると、取りこぼしも多く絶対的な強さを持っていたわけでもないハイセイコーが多くの人に愛されたというのは、まるでこの競馬ブームをさらに盛り上げるため休まず出走し続け、最後まであきらめずにゴールめざして一所懸命に疾走する姿が、長くからの競馬ファンの心を掴んだからなのかもしれません。

 まだ連勝を続けていた昭和48年5月の「NHK杯」でのこと。最後の直線でなかなか先頭に立てないハイセイコーに対し実況中継をしていたフジテレビの盛山アナが「ハイセイコー、あと200しかないよー」とまるでハイセイコーを叱咤激励するような呼びかけ実況をしています。多くの人に愛されたハイセイコーの存在を象徴するような一つの事件だったと思います。

 ハイセイコーの引退後、主戦騎手だった増沢末夫が歌った『さらばハイセイコー』のレコードがオリコン4位となるほど大ヒットしたのは、競馬ファン以外にも多くのファンがいたことの確かな証拠ではないでしょうか。

(編集協力:春燈社 小西眞由美)

筆者:堀井 六郎

JBpress

「馬」をもっと詳しく

「馬」のニュース

「馬」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ