『光る君へ』恋多き歌人・和泉式部の生涯、最初の夫は?2人の親王との恋の行方、母娘で中宮彰子のもとに出仕

2024年8月12日(月)8時0分 JBpress

大河ドラマ『光る君へ』第30回「つながる言の葉」では、泉里香が演じる「あかね」こと和泉式部が初登場し、話題となった。『後拾遺和歌集』恋三にも採られ、百人一首にも選ばれている。

あらざらむ この世のほかの思ひ出に いまひとたびの あふこともがな

(まもなくこの世ともお別れなので、あの世での思い出になるように、もう一度、逢いたい)

などの和歌で知られ、『和泉式部日記』や『和泉式部集』などが残る、恋多き歌人、和泉式部を取り上げたい。

文=鷹橋 忍 

和泉式部の名の由来は?

 和泉式部の生年は諸説があり、確かなことはわからないが、ここでは天元元年(978)説で、彼女の年齢を算出する。

 父・大江雅致は、秋山竜次が演じる藤原実資の日記『小右記』長保元年(999)9月22日条に、太皇太后宮大進であったことが記されている。

 太皇太后とは、昌子内親王(朱雀天皇の皇女、冷泉天皇の皇宮)のことだ。

 のちに雅致は木工頭と越前守を歴任した(『御堂関白記』寛弘7年(1010)3月30日条)。

 受領層の中級貴族である。

 和泉式部の母は、越中守平保衡平の娘で、太皇太后宮昌子の乳母であったと、『中古歌仙三十六人伝』には記述されている。

 和泉式部も父母の関係から、少女の頃から昌子内親王に仕えたと推定されているが、文献による証拠はないという(山中裕『人物叢書 和泉式部』)。

 やがて、和泉式部は最初の夫である橘道貞と結婚する。

 和泉式部は結婚後の呼称で、この橘道貞が長保年間(999〜1004年)に、和泉守であったからだという。


最初の夫・橘道貞

 和泉式部と橘道貞がいつ結婚したのかは定かでないが、長徳元年(995)か、長徳2年(996)頃と考えられている。

 結婚時、和泉式部は数えで18〜19歳くらいであったのに対し、30歳を過ぎていたと推定されている(校注/訳 藤岡忠美 中野幸一 犬養廉『完訳 日本の古典 第二十四巻 和泉式部日記 紫式部日記 更級日記』)。

 道貞は、藤原道長にも重用された能吏であったという。藤原道長の日記『御堂関白記』に、その名がよく見られる。

 和泉式部と道貞の間には、長徳3年(997)頃、女子が誕生している。歌人として知られる小式部内侍である。

 道貞の和泉守在任中、和泉式部は夫の任地に下向したこともあったようで、はじめは夫婦仲もよかったと推定されている(山中裕『人物叢書 和泉式部』)。

 やがて二人は不仲となり、和泉式部と為尊親王との恋がはじまる。


親から勘当? 為尊親王との恋

 為尊親王は、冷泉天皇の第三皇子である。

 貞元2年(977)に生まれた。和泉式部とほぼ同年齢と思われる。

 母は、段田安則が演じた藤原兼家の娘・藤原超子。

 つまり為尊親王は道長の甥にあたる。

 幼時に母を亡くし、兼家の庇護のもとで成長していった。

 同母の兄弟に居貞親王(後の木村達成が演じる三条天皇)、後述する敦道親王がいる。

 為尊親王と和泉式部の身分違いの恋はスキャンダルとなり、和泉式部は父・大江雅致から勘当されたという(繁田信一『『源氏物語』のリアル 紫式部を取り巻く貴族たちの実像』)。

 だが、二人の恋は、長保4年(1002)6月、為尊親王が26歳でこの世を去ったことにより、幕を下ろした。

 歴史物語『栄花物語』巻第七「とりべ野」には、為尊親王は疫病が流行するなか、新中納言(どの女房を指すのか不明)や和泉式部のもとに通ったため、病に罹り、亡くなったことが記されている。

 翌長保5年(1003)4月、和泉式部は新たな男性に出会い、言い寄られた。その男性とは、為尊親王の同母弟・敦道親王である。


敦道親王との熱愛

 敦道親王は冷泉天皇の第四皇子である。

 天元4年(981)生まれで、和泉式部より3歳年下となる。

 為尊親王と同じく、道長の甥にあたり、祖父・藤原兼家から長兄・居貞親王とともに、大変に可愛がられたという。

 大宰帥(だざいのそち)となったため、帥宮(そちのみや)とも称された。

 容姿と文才に恵まれた貴公子だった。

 この敦道親王との恋の十ヶ月を、優れた歌を交えて物語ふうに綴ったのが、『和泉式部日記』(『和泉式部物語』とも/和泉式部の自作説、他作説あり)である。

 またもや身分違いの恋がはじまり、同年(長保5年)12月18日には、敦道親王は和泉式部を自邸に住まわせ、寵愛した。

 そして、翌寛弘元年(1004)正月、敦道親王の北の方(正妻)が、無言で邸を去っていくところで、『和泉式部日記』は幕を閉じる。

 略奪愛といわれるが、和泉式部も正式な妻ではない。

「召人」という愛人を兼ねた侍女であり(川村裕子『ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 和泉式部日記』)、父親がいる貴族女性にとって屈辱的な立場だったという(繁田信一『『源氏物語』のリアル 紫式部を取り巻く貴族たちの実像』)。

 一方、橘道貞は陸奥守に任じられ、同年3月に任地へ向かった。

 のちに道貞は、和泉式部ではない女性を任地に呼び寄せており、これ以前に、和泉式部と離別したとみられている(校注/訳 藤岡忠美 中野幸一 犬養廉『完訳 日本の古典 第二十四巻 和泉式部日記 紫式部日記 更級日記』)。


母娘で、中宮彰子のもとに出仕

 和泉式部との敦道親王の熱愛は続き、寛弘2年(1005)頃には、一子「石蔵の宮(永覚)」が誕生したとされる。

 しかし、この恋も寛弘4年(1007)10月2日、敦道親王が27歳で薨じたことによって、終わりを告げた。

 和泉式部は30歳になっていた。

 敦道親王を失い、和泉式部は出家も考えたようだが、寛弘5年(1008)頃に『和泉式部日記』を執筆し、寛弘6年(1009)頃に、時の権力者・藤原道長に召し出され、道長の娘・見上愛が演じる中宮彰子(塩野瑛久が演じる一条天皇の中宮)のもとに出仕している。

 この時、橘道貞との間に生まれた娘・小式部内侍も、共に出仕したとするのが定説である(山中裕『人物叢書 和泉式部』)。

 中宮彰子のサロンには、紫式部、凰稀かなめが演じる赤染衛門ら、才媛がすでに仕えていた。

 和泉式部も歌人としての才を買われて、迎えられたとみられている。


道長の家司との再婚

 中宮彰子は和泉式部母娘を温かく迎え、和泉式部も和歌を詠み、宮仕えを楽しんだようである。

 やがて、和泉式部は、道長の家司である藤原保昌と再婚する。和泉式部より、20歳近く年上と思われる。

 この藤原保昌の弟は、SNSなどで、毎熊克哉が演じた散楽一座で義賊の「直秀」のモデルの一人ではないかと噂された、藤原保輔である。


晩年と死期

 和泉式部の晩年の様子は、よくわかっていない。

『栄花物語』巻第二十九「たまのかざり」に、万寿4年(1027)、道長の娘の皇太后・妍子の法事において、大和守として任地にあった夫・藤原保昌の代わりに、玉を献上し、和歌を詠んだ記事があるが、以後の消息は不明である。

 没年も明らかではない。

 ただ、保昌は長元9年(1036)9月に79歳で死去しているが、その死を悼む歌がないことから、保昌より早くこの世を去ったと推定されている(山中裕『人物叢書 和泉式部』)。

 多くの恋愛を重ね、妖艶な恋歌をうたい上げた和泉式部は、ドラマの「あかね」のように、華やかで奔放で、才能溢れる魅力的な人物だったのだろう。


【和泉式部ゆかりの地】

●和泉式部公園

 佐賀県嬉野市塩田町にある公園。和泉式部はこの地で育ったという伝説が存在する。

 園内には和泉式部の巨大ブロンズ像や和泉式部をモチーフにした複合遊具がある。

筆者:鷹橋 忍

JBpress

「光る君へ」をもっと詳しく

「光る君へ」のニュース

「光る君へ」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ