老中・堀田正睦とハリスの日米修好通商条約の交渉開始とその背景、岩瀬忠震の重要提案
2024年10月16日(水)6時0分 JBpress
(町田 明広:歴史学者)
堀田正睦の諮問と岩瀬忠震
安政4年(1857)10月14日、ハリスは江戸に到着して蕃書調所に入った。21日、ハリスは江戸城で13代将軍徳川家定に謁見し、ピアース大統領の親書を奉呈した。26日、ハリスは堀田正睦邸に招かれ、そこで世界の大勢を長々と論じ、自由貿易の利点を挙げ、多くの開港場を伴う通商開始の急務を説明した。
堀田は非常に感銘を受け、ハリスの演述書を幕閣に、主として海防掛に回覧し、それに対する対応を諮問した。積極的にハリスの要求を許容し、諸侯に教え諭すことを主張した大目付・目付グループと、諸侯に諮ったのちに、諾否を決定すべきと説く勘定奉行・勘定吟味役グループの対立が、ここでも見られた。
諮問に対し、大目付・目付グループの中心人物である、岩瀬忠震の老中宛の意見書(11月6日)は、横浜開港論が提示されており、ずば抜けて優れたものであった。岩瀬は江戸・横浜経済圏を確立し、大坂集中の経済機構の打破を目指し、幕府が貿易の富を独占することによって、まずは率先して武備充実を図ろうとする、富国強兵策の具体的なビジョンの一環として打ち出したのだ。
通商条約の交渉開始とその背景
安政4年11月15日、堀田はハリスの演述書を諸侯に開示し、その要求を受け入れることは止むなしとして、その事情を述べるとともに答申を要求した。越前藩主松平春嶽ら有司大名の回答は、条件付ないし積極的な賛成に傾いていたが、彦根藩主井伊直弼ら譜代大名は、ハリスの江戸駐在に反対し、通商条約の締結には猶予を求めたのだ。
注目すべきは、徳島藩主蜂須賀斉裕が「朝裁」(勅許)を条件とし、紀州藩主徳川慶福が「叡慮」に配慮し、衆議を尽くすべきと答申したことであろう。これは、これ以降、堀田政権による勅許獲得の動きに連結するものであり、注視すべき事柄である。
堀田は諸大名にも諮問した上で、ハリスとの交渉を開始することを企図した。しかし、水戸藩の徳川斉昭を始め半数近くは、通商条約への反対を表明した事実により、逡巡せざるを得なかった。こうした状況に対し、ハリスは余りに進捗がないことにいらだち、艦隊の派遣や戦争の開始を示唆するなど、武力を背景にした砲艦外交に転換したのだ。
ハリスの強硬姿勢に狼狽した堀田は、12月3日に至り、岩瀬忠震・井上清直を米国条約改訂談判委員に任命し、翌4日、岩瀬らはハリスと蕃書調所で会談し、全権委任状を交換した。この時、ハリスは修好通商条約16箇条及貿易章程6則の草案を提出しており、ここに通商条約に向けた交渉がスタートしたのだ。
岩瀬忠震の重要提案
ところで、岩瀬起草の堀田宛上申書(安政4年12月12日)には極めて重要な提言が随所に散見される。その内容は以下のとおりである。
①ハリスとの交渉過程を諸侯に全て開示し、腹蔵なく意見を募った上で徹底した衆議によって条約案を策定
②ハリスとの交渉を「国勢更張ノ好機会」と捉え、挙国一致で「国家万世ノ基」を形成し中興の鴻業を興起
③条約案ができ次第、「開闢以来未曾有ノ大事」であるため、朝廷に奏聞して孝明天皇の叡聞に達した上で、天下に布告して十分な措置を立案
④条約批准のため、使節をアメリカに派遣
岩瀬の提言は、極めて開明的かつ具体的で当を得たものばかりである。この段階で、条約の勅許獲得の流れが出来上がっていることを注視したい。さらに、万延元年遣米使節の青写真も完成している事実も見逃せない。このように、堀田・岩瀬ラインによって外政・内政がともに推進していたのだ。
安政5年(1858)1月12日、岩瀬とハリスの間で、通商条約の交渉が一応妥結した。とは言え、幕府独断で即時調印をせず、堀田は条約に反対する諸大名を抑えるために、朝廷から勅許を取る決意を固めた。こうして、勅許問題が発生し、朝廷と幕府の衝突は目前に迫っていた。
将軍継嗣問題(一橋派VS南紀派)の勃発
13代将軍家定は暗愚・病弱と噂され、12代家慶時代から憂慮の声が高まっていた。ちなみに、弘化4年(1847)の慶喜による一橋家相続は、家慶が家定の継嗣とするためだとする説が広く信じられてきたが、その根拠は見当たらない。
そして、ペリー来航時に衆望を集めた水戸斉昭が期待外れであったため、将軍継嗣問題が俄然クローズアップされることになったのだ。こうして、将軍継嗣問題が惹起することになった。
将軍継嗣問題とは、14代将軍として紀州慶福(後の家茂)を推す南紀派と、一橋慶喜を推す一橋派の政争である。南紀派の推進者は、紀州藩附家老・水野忠央(ただなか)とされ、水野による大奥工作によって妹を家慶の側室にして、南紀派を有利に導こうとした。
なお、南紀派を代表する井伊直弼は、安政元年(1854)5月、同2年(1855)1月に老中松平乗全(のりやす)に継嗣(名前は挙げず)の必要性を伝達している。南紀派は、血統重視・外部意見の拒否・斉昭嫌悪、この点で結束したとされるが、その実態は意外にも曖昧である。
一方で、一橋派の推進者は、松平春嶽・水戸斉昭・島津斉彬らの有司大名が中心であり、そこに水戸藩関係者(安島帯刀)、一橋家側近(平岡円四郎)、老中阿部正弘、海防掛等が加わった。
一橋派は、「英傑・年長・人望」のある将軍のもとでの幕権の再強化を打ち出したが、その背景として、自己の幕政参画を期待する野心が存在した。嘉永6年(1853)8月10日、松平春嶽が老中阿部正弘に入説したのが起点とされるが、同意を得るも時期尚早と判断された。なお、この頃に春嶽は島津斉彬と連携を開始したらしい。しかし、堀田の態度は曖昧であり、両派から距離を置いていた。
安政3年(1856)9月、ハリスの下田来航を機に、春嶽は徳島藩主蜂須賀斉裕(11代将軍家斉の22男、12代将軍家慶の異母弟)、宇和島藩主伊達宗城と提携した。さらに、尾張藩主徳川慶勝に働きかけ、慶喜を推挙することを申し入れた。
なお、島津斉彬が篤姫を13代将軍徳川家定に輿入れさせたことは、将軍継嗣問題を有利に運ぶためとされてきた。しかし、これは幕府からの要請であり、将軍継嗣問題に絡む権謀術数説であることは、現在では否定されている。ちなみに、安政4年3月27日、斉彬は慶喜と初対面を果たしたが、「実に早く西城に奉仰候御人物」(春嶽宛書簡、4月2日)と、将軍継嗣に相応しい人物と評価している。
松平春嶽の工作と事実上の継嗣決定
安政4年12月26日、儒役林復斎・目付津田正路は京都に到着した。29日、武家伝奏広橋光成・東坊城聡長に対して海外の形勢を説き、アメリカの要求を容れて公使駐紮・貿易開始の止むを得なしの状況を論じたが、まったく効果はなかった。これは、使者の官位の低さも関係したかも知れない。
安政5年(1858)1月9日、松平春嶽は老中堀田・松平忠固・久世広周に、堀田の上京前に将軍継嗣の内定を要求した。12日、春嶽は再度堀田に対し、外様大名からの厳しい要求で継嗣決定となれば、幕府の権威は失墜してしまう。朝廷からの沙汰による決定では、恥辱となり威光は地に墜ちると説き、出発前の決定を強く促した。これに対し、春嶽は堀田から前向きの感触を得ている。
1月16日、春嶽は堀田から、将軍継嗣に慶喜を推すことを評議して、昨日には将軍家定に言上したことを確認した。20日、春嶽は堀田から、英断なし、つまり将軍家定の判断はなかったと確答を得ている。1月21日、堀田は江戸を発し、上京を開始した。また、堀田を補佐する岩瀬忠震は同20日、川路聖謨(勘定奉行)は同22日に出発している。いよいよ、舞台は京都に移行する。
なお、実際には1月15日、将軍家定は「一橋ニ而は決而不相成義、御先々代様御続も御近之紀家と兼而御心ニ御取極被置候」と、台慮(将軍の意向)を即座に仰出ていたのだ。実はこの段階で、家定は慶喜では決して許しがたく、血統からしても慶福と以前から取り決めていると述べており、継嗣は慶福と決定していたことになる。堀田も当然、このことは了解しており、南紀派の勝利は決定的であったのだ。しかし、堀田はそれを隠匿したまま、上京の途についた。
次回は、通商条約の勅許獲得の動向において、2度にわたる失敗の経緯を丹念に追いながら、将軍継嗣の3要件「英傑・人望・年長」がいかに扱われたのか、また、孝明天皇の真意はどこにあったのか、詳しく述べてみたい。
筆者:町田 明広