大神いずみ 元木翔大、最後の試合は「4番、サード」。夫・元木大介が戦力外通告を受けたときは妊娠5ヵ月、引退を決めたのは父の言葉だった【2023編集部セレクション】

2024年12月30日(月)12時0分 婦人公論.jp


バッターボックスで力強いひと振り(写真提供◎大神さん 以下同)

2023年下半期(7月〜12月)に配信した人気記事から、いま読み直したい「編集部セレクション」をお届けします。(初公開日:2023年07月27日)
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夏の甲子園予選も大詰め。全国で代表校が決まりつつある。2021年4月、ライザップでダイエットを成功させた元日本テレビアナウンサーでタレントの大神いずみさんは、読売巨人軍のコーチ、元木大介さんの妻であり、2人の球児の母でもある。ターンテーブルで回るため、苦しいダイエットをしている最中に、長男が大阪の高校で野球をやるため受験、送り出すという決断をしている。夢と希望にあふれてスタートした高校生活はコロナや怪我で思わぬブレーキがかかった。球児の母として伴走する大神さんが、この2年を振り返る。

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前回「最近、打席に立つ長男の顔が夫・元木大介と一緒に…。背番号をもらえずに引退するが、甲子園を目指し、最後まで仲間のサポートに徹する」はこちら

野球をやってきた息子たちの記憶


「暑いですね」は、ほかに素敵な言葉で言い換えられないものだろうか…。

痛みに近い暑さが続く、この夏。
毎日のように全国の高校野球、地方大会の様子がニュースで見られるのだが、長男・翔大と同学年、後輩の球児たち。これまでどこかで対戦した、あるいは一緒のチームだった選手の名前が記事を賑わせている。

目覚ましい快進撃を遂げる学校もあれば、一つ一つ「終わり」を意味する敗戦もある。試合の詳細には載らない活躍がたくさんあったはず。
各地の名門で野球を頑張ってきた仲間たち、その一人一人の顔を思い浮かべる夏の戦い。いつもの心踊る甲子園の季節と違って、一つ一つの記事にチクチクと心の奥を刺されるような思いで記事に見入っている。

だが翔大にとっては明らかに私とは違って見えているようだ。
正直なところ母の私の記憶にはほとんどない試合や選手の名前も、野球をやってきた息子たちの記憶の一コマは、鮮度と質が圧倒的に違うのである。

「中1の時のあの大会の2回戦、どこのチームとの対戦の7回裏、ツーアウト1、3塁の場面で相手は4番、カウントツーツーでカーブが抜けたあとの一球、ストレートを左中間に打ち返したあいつが、××高校でホームラン打っとる」
名前は知らないのに顔を覚えていたりする。

すごいな、あんた。

話の途中からもう、その野球の状況がよくわからない母、いずみ。

特別なレコーダーが備わってる?


次男・瑛介でさえ、前に選考会ですれ違ったことのある子の名前や顔をよく覚えていて、このところどこかで対戦するとすぐ思い出すらしい。今どこへ行っても思い出す顔が増えてきて、「名前は知らんけど」なんだか手強いライバルが続々登場しているようだ。もうなんだか、言葉とか名前じゃないんだな。

最近よく呼び止められてワーワーキャーキャー「久しぶり〜〜〜!」と当たり障りのない挨拶で時間を稼ぎながらまったく相手の名前が出てこなかったりする母には、本当にうらやましいかぎりです。

でもそんなに細かくいきいきと覚えている試合を数えきれないくらい経験しているのに、どうしてうちの子たちは靴下を裏返したまま洗濯機に入れるなという、「昨日も言ったよね?」な母の言葉を今日も覚えていないんだろう。

活かせ、その記憶力。
もっと他の事にも。

ちなみに亡くなった元木の義父は、選手の出身高校や甲子園時代からの戦績、試合の詳細など、いつでもどんな選手でもサッと答えてくれる人だった。スマホやパソコンのない時代、毎日毎日スポーツ新聞を隅から隅まで赤い線を引いて読んでいた。息子の少年時代から中学高校野球、プロ引退までのデータを、この世の中の誰よりも知り尽くしている人だった。

野球を知っている人にしか備わることのない、特別なレコーダーのようなものがあるのかしらね。


力強くホームベースを踏む

家族の「引退」


次男の中学野球チームには、高校最後の試合を終えて引退したOBたちが、このところよくグランドに挨拶に訪れている。
中学野球少年たちにとっては、憧れの高校野球に進んで活躍した、チラチラと金粉を振り撒いて歩いているような、まさにスターな存在。真っ黒に日焼けした顔から白い歯をのぞかせて、照れながら後輩たちへ言葉を送る先輩の、まぁぁあああ爽やかなこと!
一つ野球に区切りをつけてホッとしたような笑顔で挨拶に来られる姿が印象的だった。

こうして野球の中で生活していると、何度か訪れる家族の「引退」というものを見守ることがある。チームの最終学年の最終戦を終えると「引退」ということになるので、今は2人の息子たちにも使う言葉だ。本当に野球を辞めるわけではないのでそんな大そうな意味はないのだが、やはりチームを離れる寂しさや名残惜しさを感じながら去る立場。切ない思い出は一つ一つ増えていく。

我が家にとって最初の「引退」は、夫のプロ野球引退だった。まだ子どもが生まれる前、結婚5年目の時である。

この話をするとみんなウッ、と言葉に詰まってしまうので気を遣わせるつもりはないのだが…。

夫が戦力外通告を受けたとき私は妊娠5ヵ月目で、第一子を迎えるために自宅を新築する準備まで進めていた。うっ。今思えば相当大ピンチなのだが、そこは私のお腹にすでに「命」がすくすくと育っていたおかげかもしれない。心配や不安でいっぱいというより「この命を守らねば」という母性が上回っていたのか、悪阻明けで調子づいた食欲のままよく食べ、よく寝て、私自身はとてもハツラツとしていた。

夫は自分で「引退」の答えを出した


渦中の夫は、いつもはほとんど使うことのなかった和室にこもったまま、自身の進退を悩みに悩んでいた。時々聞こえてくる声は心配で電話を下さる先輩方や友人に気丈に挨拶していたようで、誰かに相談しているふうではなかった。

食事の時以外ずっと部屋にこもっていた夫も、3日目くらいに無精髭をうっすら生やした仙人のように部屋から出てきて、私にあらたまって「巨人で野球を引退しようと思うけど、いいか?」と言った。

あとから聞いたのだが、誰にも相談することなく一人で悩んでいたなか、大阪の父に電話した時ひとこと「15年もやってきて十分頑張ったんやないか。いい思いもさせてもらった。ありがとう」と言われたことが、夫が引退を決意するきっかけになったらしい。
義父は決して何かを勧めたわけでなく、ただ息子に感謝の気持ちで労ったということだ。
そして夫は自分で答えを出した。

なので「いいか?」と訊いているけれど、それは私に意見を訊ねているようには聞こえなかった。
いや、いいも何も。
彼がずっと携わってきた彼自身の野球人生の話。ここ最近家族になったばかりの私が、辞めないでだの辞めろだの言えることでないと思った。

なので、わりとあっさりと「お疲れ様でした」と返したような気がする。先のことなんか全く考えず…今考えるとちょっと怖いんだが。

チームを去る時


何より幸せだったのは2005年10月6日、夫の父親の誕生日翌日に、東京ドームで引退セレモニーをしていただいたことだ。
西山秀二さん、後藤孝志さんと一緒に東京ドームの広島戦の後だったが、360度ファンの方々の声援に送り出されて引退した元木の姿を、驚く数の元木の親戚たちと共に見届けていた。少年時代からプロまでずっと元木大介の野球を応援し続けてくれた親戚たち。
夫の両親も、この日が来るのをどこか覚悟していたような、それでも誇らしいような表情で、東京ドームのスタンドに2人並んで座って息子を見守っていた。

なぜか2回、4回、6回の攻撃のたびに、鳴り物以上にドンドコお腹を蹴って大暴れしていたお腹の子。翔大である。あの頃から無類のジャイアンツファンだったのか、父親の応援をしているつもりだったのか…。まだ24週目ほどなのにそのまま出てきたらどうしようと気が気でなかった。

私はあの時、目に焼き付けようと思って見ていたドームの景色を今も鮮やかに覚えている。野球っていいなぁ。パパよかったね。お疲れ様。そんなことをぼんやり思いながら、グズグズ鼻をすすりながら見ていた東京ドームのグランドを、夫は顔をクシャクシャにして泣きながら一周していたのを覚えている。

あれから夫が泣いているのを私は一度も見たことがない。
でも自分の野球の全てを見守り続けてくれた父親が亡くなった時は、私の見て
いないところでひっそり泣いていたのかもしれない。

あれから翔大が生まれて、サッカーに夢中だと思っていたらいつのまにか野球の世界に吸い込まれていった。そして5歳離れた弟も当たり前のように野球を始めていった。

学童、中学と、最終学年を終えてチームを去る時が来ると、だんだん寂しくなっていくものだ。もう主力ではなくなり、卒業まではグランドの隅の方で邪魔にならないよう、遠慮がちに練習を続ける。もちろん、素振りやランニングや補強などは自宅でも毎日続けていく。

そして、また新しい野球がまた始まるのをワクワクしながら待ちわびる時間でもある。


3ベースヒットを放ち、サードでガッツポーズする翔大くん

最後の試合は「4番、サード」


チームには必ず「卒団式」と言うものがある。
お世話になった監督コーチの言葉、これまでの試合の動画やスナップを繋いで作ったビデオ上映、本人たちの涙の言葉など、親にとっては『南極物語』のタロとジロが遠くから走ってくるのを観るのと同じくらい、号泣必至のイベントである。

ところが、私は今まで一度も卒団式で泣いたことがない。試合に勝って泣くことはよくあっても、なぜか野球の最後では一度も泣けないのだ。

先日翔大の高校の野球部で、引退試合をしていただいた。
夏の大会が迫る中、ベンチ入りできなかった3年生を中心に最後に全員ベンチに入って試合をさせてもらった。
よくニュース番組で特集されて見たりしていたが…
たぶんテレビを見ていた時の方が号泣していた気がする。3年間ここにかけてきた思いは皆同じ、仲間の一員として野球をやれる最後、思いっきり楽しもう!
やーーー!!みたいな、とても清々しく明るい雰囲気のなか、試合が始まった。

遠方ということで保護者のサポートが何一つお手伝いできなかったのに、試合の様子はいつも速報で流してくださって、息子が活躍した試合の動画や写メをたくさん送ってくださった、野球部の保護者の皆さん。むしろその方がありがたくて涙の出る思い。本当にお世話になりました。


引退試合でのツーショット

元木翔大、最後の試合は「4番、サード」。
立派な球場の電光掲示板に名前が出て、母親なら涙が滲んでよく見えないような場面。

「おいおいおい…」
ひそかに私は電光掲示板にツッこんでいた。不安しかない。怪我から回復したとはいえ、いくらなんでも4番、て…。

夜空に向かって手を合わせて感謝した


ところがよく考えてみたら我が息子、こういう晴れ舞台が大好物の、「ココ一番」勝負にめっぽう燃える男だった!幼稚園サッカーの時も、ほぼ絶望と言われた小学校受験の時も、中1でカルリプケン世界大会に出た時も…。
結果はどうあれ、逆境を楽しむタイプ。「わー、やべぇ。」を力に変えるタイプ。
んん。ものはいいようだ。コケたとき何も言わずにスッと下がるが、当たった時のうおーー!な場面が本当に大好きな男である。明らかに父親似だ。

「もときしょーた、ララララーララ♪」
後輩たちと保護者の応援にも力をもらって、翔大は驚くほどダイヤモンドを駆け抜けていた。
クラブさばきもシュンシュン軽やか、実に楽しげ。

そうだね、色々苦しかったけど、
野球ってこんなに楽しかったかね。

きっと本人もそう思いながら野球をしていたに違いない。
結果終わってみればチームは圧勝、翔大も5打数4安打の大あたり。

(…前にもっと早く打っとかんか!!)

喜び中の息子を遠目に、母はボソッと口に出してしまった。
日中暑かった日の夜空は、暗くなってもカラッと空気が澄んで見えた。なぜかそんな夜空に向かって手を合わせて感謝したのは、亡くなった2人の父たちへ。
3年間翔大を守ってくださってありがとうございました。
本当にそんな気持ちになった夜だった。

そして私がいつも野球の最後に泣かない理由が、なんとなくわかった。
私が野球をやってたわけじゃない。暑い日も寒い日もずっと野球をやってきた
本人にしか、泣く理由はない。

私はいつだって、彼らの次の野球が楽しみだ。まだ彼らの野球に終わりがないのなら。
だから、まだ泣かない。

あ、言い忘れてたけど…
翔大、ここまでお疲れ様!
大学でも野球がんばんだよー。


翔大くん、最後の試合でチームメイトと喜び合う

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