「人間と思わず、犬か猫を殺すつもりでやるのよ」出刃包丁を突き刺してえぐり、死体は床下に…「悪魔」と呼ばれた女が隠していた“もう一つの殺人”《ホテル日本閣事件》

2025年5月11日(日)11時0分 文春オンライン

〈 「写真? どうぞ」疑惑の女は取材に笑顔で…ホテル経営者夫妻はなぜ相次いで“消えた”? 女性初の死刑執行「日本閣事件」の全貌 〉から続く


 いまから60年以上前に起きた「ホテル日本閣殺人事件」。犯人の小林カウは、戦後初めて死刑が執行された女性で、「日本最大の悪女」「毒婦」と呼ばれた。ただ、彼女が歩んだ人生を振り返ってみると、はたしてどれだけの悪女・毒婦だったのか……。もしその“称号”通りだとすれば、そうした人格はどのようにしてつくられたのか?


 当時の新聞記事は見出しはそのまま、本文は適宜書き換え、要約する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。(全3回の2回目/ 続き を読む)


◇◇◇


旅館「日本閣」の夫婦が失踪、捜査を進めると……


旅館主夫妻は殺されていた」。地元紙の下野新聞(以下、下野)は初報となる2月21日付朝刊社会面トップの記事にこう見出しを付けた。内容は先行報道したもう一つの地元紙・栃木新聞(以下、栃木)の同じ日付の「旅館主夫妻を次々殺害」が主見出しの記事を見よう。



〈 夫婦そろって行方不明という、ナゾに包まれた塩原温泉「日本閣失踪事件」を捜査していた県警本部と大田原署は20日未明、塩原町塩釜、土工・大貫光吉(37)を窃盗容疑で付近の山林で逮捕。自供に基づき、同日午後5時半、日本閣の共同経営者(自称)小林カウ(52)=同町塩釜、物産店主=を殺人容疑で逮捕した。大貫も同容疑に逮捕状を切り替え、同夜はカウを宇都宮署に、大貫を大田原署に留置。本格的な取り調べを始めた。



 カウが旅館乗っ取りを策し、大貫を使ってまず同町福渡、日本閣主人・生方鎌輔(53)の妻ウメさん(48)を、次いで鎌輔を殺害した疑い。カウは犯行を自供していないが、大貫の自供に基づき、大田原署捜査本部はきょう21日午前10時から、鎌輔の遺体を埋めたという日本閣前の山林を、次いでウメさんを埋めたとされる日本閣新館土台下を発掘する。〉




「夫妻は殺されていた」(下野新聞)


 捜査本部が事件の経緯を把握し、あとは自供と遺体発見が鍵とみていたことがうかがえる。カウたちはいろいろ偽装工作をしたが、その程度で警察をだますことができないのは当然だった。鎌輔は殺人の被害者である半面、妻のウメを殺した事件においては被疑者でもある。栃木は呼び捨てだが、下野は「さん」付けだ。栃木の記事は続く。


「旅館経営をしてみたい」と日本閣乗っ取りを考えた



〈 捜査本部の調べによると、カウは1959年暮れごろ、同じ宗教団体の信者同士として鎌輔と知り合った。間もなく、うわさ通り、日本閣の経営が苦しいことを知り、「埼玉県に時価200万円の土地を持っている」として共同経営を持ちかけた。



 当時、カウは物産店と喫茶店兼食堂を経営。繁盛していたため、鎌輔も信用し、何かと相談相手にして、2人は急速に接近したらしい。そのころからカウは知人にも「塩原にいるからには旅館経営をしてみたい」と漏らしていた。本格的に日本閣乗っ取りを考え、それにはまずウメさんを殺すことだと鎌輔を誘惑。日頃から親しくしていた大貫を使って3人でウメさんを謀殺し、遺体は日本閣の敷地内に埋めた。



 ところが鎌輔はそのショックと経営不振が重なって精神病院に入院。退院したが、よくならないまま、今年正月ごろ、カウと大貫に殺されたらしい。昨年の大みそかに見かけた人がいたが、それ以降、消息を絶っていた。〉



 事件の全体像はほぼ見えた。栃木の記事は逮捕後のカウの表情も書き留めている。



 ふてぶてしい態度



 午後8時、大田原署から宇都宮署に連行された、主犯とみられる小林カウは、案外落ち着いた態度で宇都宮署中庭に回されたジープから、水沼・大田原署捜査係長に腕を取られて降り立った。薄桃色の和服に茶の縞模様のトッパー(上っ張り)、束髪で紅をさした顔はどう見ても40歳前後にしか見えない。申し訳程度にうつむいて取調室に連行され、約1時間にわたって調べを受けたが、ほとんど口を開かなかった。取調官の問いに対しては、はっきりと顔を上げて相手を見つめるふてぶてしさだった。〉



 下野、栃木両紙ともカウの連行写真を掲載。栃木は事件の当事者3人の経歴にも触れる。



 “養子縁組”で伏線 男関係にもスゴ腕



 近所の話を総合すると、小林カウは埼玉県熊谷市生まれ。1955(昭和30)年10月、漬け物の行商で塩原を訪れ、そのまま住み着いた。その間、1958(同33)、1960(同35)年にはエロ写真を売って大田原署に逮捕された。若づくりの美人、しかも多情で男関係は多かった。1959年には大田原市の資産家と結婚。1週間で離婚して多額の慰謝料を取った。昨年5月には養女(26)を鎌輔と養子縁組させたが、これも世間をごまかす伏線だったとみられる。〉



「経営不振から精神がおかしくなり……」



〈 町の人たちの話によると、鎌輔は全国の温泉場の番頭を転々。1935(昭和10)年ごろ、塩原町古市の旅館の番頭になり、当時同旅館で女中をしていたウメさんと結婚した。1940(同15)〜1941(同16)年ごろ、知人の紹介で山口県の軍需工場の支配人になったが、戦後再び塩原町へ。「いそや旅館」の番頭となった。客扱いがうまく人気があり、小銭を貯めて1953(同28)〜1954(同29)年ごろから、現在の日本閣の場所に「清月」という芸者置屋を開業。2〜3年してホテルに改築して開業した。



 その際の改築費などで借金した300万円がその後の運営に大きく響き、1959年ごろには180万円の負債でどうにもならず、約半年間、精神状態がおかしくなって宇都宮市内の病院に入院したという。ウメさんは昨年初めごろから夫とカウが急速に親しくなったのを見て二人の仲を疑ったらしく、よく夫婦げんかをしていたという。〉



 同じ栃木の2月24日付によれば、1957年ごろ、宝くじで50万円を当てたのが鎌輔を旅館経営に踏み切らせる動機になったという。21日付栃木の記事は続く。



 得体のわからぬ男



 大貫は鹿沼市生まれ。各地を転々として1958年ごろ、風呂番として日本閣に住み込んだが、1カ月で辞め、その後、カウと知り合った。定職がなく、観光客の荷物運びや土工などをしていたが、昨年5月には窃盗容疑で逮捕された。ウメさん失踪についても調べを受けたが決め手がないまま釈放。それ以来ますますカウに接近し、日本閣にもたびたび出入りしていた。決まった住居がなく“得体の分からない男”で通っていたが、今年になってから急に金回りがよくなり、洋服や時計を新調していたという。〉



「日本閣」そのものについても記述がある。


「二、三流の旅館」とみなされていた日本閣



〈 日本閣は町の中心から約1キロも離れ、箒川(ほうきがわ)を隔てた橋向こう。裏手は山林で寂しい所だ。ウメさんの失踪以降、工事中止となった建物が屋根と柱とわずかな周囲の工事のまま、ひっそりとしている。この土台工事のコンクリートの中にウメさんの遺体が埋められたといううわさがもっぱら。町民たちは“お化け屋敷”と呼んで怖がっている。〉



 栃木新聞社編集局編『栃木年鑑 昭和37年版』によれば、日本閣は室数16で収容人員は一般100人、団体150人と小規模。日本閣のある塩原・福渡温泉は神経痛、リウマチなどに効能がある弱食塩泉だが、日本閣は温泉を引き込む権利を持っておらず、「二、三流の旅館」とみなされていたようだ。


 時代は前年の1960年、「60年安保」の大きな流れが過ぎ、岸信介首相退陣の後を受けた池田勇人首相は「所得倍増計画」をぶち上げた。高度成長の波に乗って、日本各地の温泉に多くの客が来訪。旅館も新築・増改築で鉄筋コンクリート造りが増える。道路が整備され、鉄道以外でも大型バスで客が来るようになり、温泉は「湯治場」から観光温泉地へと変貌していく。事件はそんな時代背景の中で起きた。


ミイラのようになった遺体が床下から発見


 2月21日、捜査本部は捜査員約100人をかけて捜索し、日本閣の未完成の新館廊下床下から鎌輔の遺体を発見。


「床下の土は柔らかく、作業は急ピッチで進み、約90センチ掘り下げた時、毛布が現れた。約2メートル四方の中に鎌輔は毛布にくるまって北枕に埋められ、両足を曲げてミイラのように冷凍化していた」と22日付下野の記事。


 鎌輔の遺体は、「出刃包丁でとどめを刺されたためか、首から上は出血がひどく、のどには首輪のように荒縄が巻き付けられてあり、むごたらしい姿に捜査員もしばし顔を背けていた」という。


 同じ紙面には、捜査本部が21日、鎌輔の遺体を隠し、証拠隠滅を図った疑いで“第三の男”、西那須野町の植木職人(55)を逮捕した記事が載っている。のちにこの人物は証拠不十分で起訴猶予になる。


 発掘現場には大貫も連行された。22日付下野は「山のような人だかりを流し目に見て不敵な薄笑いを浮かべながら、身振り手振りで捜査員に凶行の模様を詳しく説明していた」と記述。一方、同日付栃木は「頭からマフラーを被り、深くうなだれたまま、終始ブルブル震え、遺体の近くでは『かんべんしてください』と何度も後ずさりしていた」と全く印象が異なる。


過激さを増すカウに関する報道


 下野は1面コラム「平和塔」でも「悪魔のような女、小林カウ」の見出しで事件を取り上げたが、ウメの行方は「現在のところはナゾに包まれている」としつつ、「色と欲の二道かけた小林カウなる女性の心臓の図太さには驚かざるを得ない」と書いた。


 25日付の同じ欄でも「カウの残虐性には背筋の寒くなる思いがする」「常人の神経をはるかに超えるものだ」とした。当時の新聞社会面全体にいえるが、“悪逆非道”“無恥”“淫乱”など、事件と関係者の性格を決めつけ、それに沿って思い込みの強い報道が展開されている。それは23日付下野に掲載された「10代から水商売転々 色と欲の性格異常者 小林カウ 金になれば体をはって…」という記事についてもいえる。



〈 小林カウは10代で水商売に足を踏み入れたが、酒好きなのと多情のため、勤め先を転々と変えた。一時結婚生活に入ったが、長続きしなかった。中年になって事業欲が激しくなり、熊谷市で食品などを扱って小金を貯め始め、漬け物「風味漬」を持って塩原町の物産店に売りさばきに来たのが1955年の春だった。



 小ざっぱりした身なりで、年に見えない若さが男たちの関心を呼び、粘りの商法で成功。間もなく福渡に5年計画で家を借り、物産店「なかや」を開店して足がかりを固めた。危険を顧みず観光客相手にいかがわしい土産物をがめつく売りつけ、金が貯まると、旅館経営者になるのを夢見て、目の前で開業した日本閣に目をつけた。〉



 下野の記事は続く。


「色と欲に激しい性格異常者」「男関係でも愛情はカケラさえなく…」



〈 今回の事件にショックを受けた地元の人々は「高橋お伝」らの毒婦物語のヒロインを思い起こし、話題の花を咲かせている。元日本閣女中の話によると、カウは欲が深すぎて、東京から来た人物に出資話で金をだまし取られたこともあるという。色と欲に激しい性格異常者だったカウは「隣近所の評判は悪く、お金の話になるととてもがめつく、私たちの給料の遅配も間々あった」「旅館の増築に夢を抱いて、よく設計図や見取り図を描いており、欲の深いカウと計画性のない鎌輔との口論はよくあった」(元女中の話)。



 男関係でも愛情はカケラさえなく、事業欲からの交渉で次々男を替えていた。殺人の現場で長期間平気で一人暮らしをしていたことは常人の神経をはるかに超える。利用され“消された”鎌輔も精神に異常を来したが、「鎌輔がああなっていなければ、カウに狙われてもこんな事件は起こらなかっただろう」という地元の声もあり、2人の異常者の接触が生んだ惨劇だった。〉



「 高橋お伝 」とは明治初年、金目的に男を殺して斬首刑に処され、実録小説や講談などで「毒婦」と騒がれた人物。カウを「塩原(の)お伝」と呼んだ週刊誌や雑誌は多いが、それはまんざら根拠がないわけでもなかったようだ。


積み重ねられる「毒婦伝説」


「週刊新潮」1961年5月15日号によると、群馬県出身のお伝は逃亡中、一時カウの母親の実家近くに隠れており、カウの母親をだっこしたことがあるという。カウは取調中にも机の下で検事の脚に手を伸ばしたとか、着物のすそを開いて係官に見せたなど、「毒婦伝説」が積み重ねられた。


 この日の下野は、「ウメさんの死体も見つかる」が見出しの記事が社会面トップ。日本閣から南西約100メートル入った雑木林で白骨化した遺体が発見されたと伝えた。同じ日付の栃木には大貫の立ち合いで行われた発掘作業の写真が3枚載っている。


「犬か猫を殺すつもりでやるのよ」ウメ殺しの犯行を自供


 さらにウメの遺体発見を聞かされたカウが「ようやく観念したのか、(22日)正午すぎごろから『死刑だけは堪忍してください』と前置きして犯行を自供し始めた」との記述も見える。そして翌2月24日付下野は、事件の性格を決定づける「犬猫殺すつもりで… 尻込みする大貫けしかく(けしかける) 夫婦殺しの本格的通り調べ始める」が見出しの記事を掲載する。主要部分を見る。



〈 事件の主謀者・小林カウは宇都宮署特捜班の調べ室で青木刑事部長に「あなたの身代わりに、ワシが生方さん夫婦の遺体に焼香してきてあげたよ」と肩をたたかれて初めて、せきを切ったように泣き崩れ、神山警部の追及にウメさん殺しの犯行を初めてはっきり自供した。



 カウらのこれまでの調べを総合すると、昨年1月中旬ごろ、大貫はカウに「家に来てくれ」と言われ、行ったところ、カウと鎌輔が待っていて、「ウメを殺してくれ」と頼まれた。大貫は最初は冗談だと思って断ったが、あまり真剣なので、5万円の報酬で引き受けた。鎌輔は「俺のいないところで殺せよ」と言い、内金として2万円を手渡した。大貫は気が進まなかったので、その足でその金で酒を飲んでしまい、その日の夕方、カウの家に息せき切って駆け込み、「殺してきた」と(うその)報告。焼酎で“祝杯”をあげた。間もなく、鎌輔が帰宅したところ、ウメさんが元気な姿で「お帰りなさい」と出迎えたのでびっくり。後でカウに「あの時は化け物かと思った」と語った。カウも「その日の夜、日本閣に電話したらウメさんが出たので、腰が抜けるほど驚いた」と供述している。



 その後、大貫はカウらに「いったん引き受けたら、男らしくやれ。人間と思わず、犬か猫を殺すつもりでやるのよ」と“励まされ”、2月6日夜、階下六畳間に寝ていたウメさんを15分ぐらいかかって手で絞め殺した。カウは廊下にいて「助けて—」という悲鳴を聞いていた。カウは町内に隠れていた鎌輔に電話で、前もって決めていた合言葉で「売れた」と伝えた。ウメさんの遺体は最初ボイラー下に埋めたが、世間が騒がしくなったので1カ月後、大貫とカウが埋め直した。この時も鎌輔は帳場にいた。



 カウはウメさん殺しを大貫に依頼した時、「いずれは鎌輔も殺して、おまえと2人で旅館を経営しよう」と言っており、当初から計画していた。大みそか、テレビを見ていた鎌輔の後ろからカウが縄を首に掛けて引き倒し、大貫が馬乗りになって右耳の下に出刃包丁を突き立ててえぐり、とどめを刺した。遺体は一晩隣の部屋に転がしておいて、翌朝新館大広間に運んだ。その後、300万円の火災保険に加入。日本閣に放火しようと考えたが、割に合わないと思い直してやめた。カウは「本当に好きな男はいない。利用したまで」と述べている。



 一方、大貫は昨年12月25日のクリスマスにウメさんを埋めた場所を訪れ、「気がとがめるので、墓標代わりにモミの木を置いてきた」と言っている。取り調べの際も、震えて声も出ないので、係官が火箸を持たせてやると両手でしっかり握り締め、ようやくポツリポツリと話しだしたという。大貫にはまだちょっぴり人間らしいところがあるようだ。〉



 この記事も最後に「カウの夫は十数年前、脳出血で死んだという」と書いている。しかし、事件は新たな展開を見せる。下野の3月2日付の記事に書かれていたのは——。

〈 「私は女だから死刑はないんです」18歳下の不倫相手と共謀し夫を殺害、“金と色欲にまみれた毒婦”と呼ばれ…戦後初めて死刑になった女の“最期の姿” 〉へ続く


(小池 新)

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