「写真? どうぞ」疑惑の女は取材に笑顔で…ホテル経営者夫妻はなぜ相次いで“消えた”? 女性初の死刑執行「日本閣事件」の全貌
2025年5月11日(日)11時0分 文春オンライン
「悪女」とはよく使われる言葉だが、そのニュアンスはさまざまだ。今回取り上げるのは、いまから60年以上前、女性として戦後初めて死刑が執行され、「日本最大の悪女」「毒婦」と呼ばれた人物。ただ、彼女が歩んだ人生を振り返ってみると、はたしてどれだけの悪女・毒婦だったのか……。もしその“称号”通りだとすれば、そうした人格はどのようにしてつくられたのか?

当時の新聞記事は見出しはそのまま、本文は適宜書き換え、要約する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。(全3回の1回目/ 続き を読む)
◇◇◇
1970年6月、女性で戦後初の死刑執行
いまから55年前、前回の大阪万博が開会中だった1970(昭和45)年6月13日付読売新聞(以下、読売)の社会面にベタ(1段見出し)記事が載った。
〈 日本閣事件の小林カウ死刑執行 女性で戦後初
女性死刑囚に対し11日、東京・小菅刑務所で戦後初めて刑が執行された。さる(昭和)35(1960)年、栃木県・塩原温泉のホテル乗っ取りをめぐり、経営者夫妻を殺した「日本閣事件」など、3件の殺人事件の被告として41(1966)年7月14日、最高裁第一小法廷で刑が確定した元・日本閣管理人、小林カウ(61)。戦後、死刑が確定した3人目の女性だが、他の2人は恩赦と死亡で執行されていない*。なお、共犯の雑役夫、大貫光吉(46)も処刑された。〉
*実際には1人目が恩赦後に病死、2人目はカウの後(1970年9月)に執行された
当時の新聞記事は「容疑者」「死刑囚」などの呼称を付けず、呼び捨てだった。小林カウの肩書は1961(昭和36)年3月の起訴状では「旅館業」になっており、「元・日本閣共同経営者」が正確だろう。「カウ」は口頭では「こう」と呼ばれていたようだ。
読売の同じ紙面には「“三行半”(離婚請求)も女性から」が見出しの、「“女性上位時代”をはっきり裏づける」厚生省(現厚労省)の調査結果の記事が大きく掲載されている。このベタ記事だけではカウの「悪女」ぶりは分からない。
ホテル日本閣の夫妻が「ナゾの失踪」
時計を9年余り巻き戻して事件を振り返ろう。第一報は地元紙の1つ、栃木新聞(以下、栃木)の1961年2月18日付社会面2段の記事のようだ。
〈 旅館主夫妻、ナゾの失そう 塩原、金策すると相ついで
塩原町福渡、温泉旅館ホテル日本閣主人、生方鎌輔さん(53)と妻ウメさん(48)の2人は昨年2月から12月31日までの間に相次いで失踪。行方はナゾを秘めているが、殺されているのではないかと心配され、大田原署が本格的な捜査を開始した。
日本閣は昨年暮れ、紅葉シーズンが終わってからは番頭、料理人、女中さんたちを帰してしまい、主人の鎌輔さんの失踪後も、共同経営者の小林カウさん(52)が一人で留守を守っている。
ウメさんは昨年2月11日、30万円を持ったまま行方をくらまし、実弟の同町古町、旅館番頭・相沢福太郎さん(45)から大田原署に捜索願が出された。同署の捜索は昨年5月中断されたが、同年12月31日になって、またまた鎌輔さんが金策に行ったまま、1カ月半以上たった今も帰ってこないため、大田原署が再び捜査を進め、小林カウさんから事情を聴いた。〉
末尾には「小林カウさんの話」として、彼女の談話がある。
〈「鎌輔さんは、日本閣が経営不振でどうにもならなくなり、『今度こそ金策をしてくる。かなり長くなる』と言って出かけたので……。ウメさんが出た時は荷物を全部持って行きました」〉
栃木は翌19日付社会面トップで生方夫妻と日本閣、そして小林カウの写真を添え、大きく報じた。見出しは「生か死か ナゾを秘める 旅館主夫妻の失跡事件 全く手がかりなし “複雑な共同出資” 大田原署で本格捜査」。
記事では、カウが「夫妻が死んでいるとは思えぬ。特に金策に行った鎌輔さんは必ず帰ってくる」と前置きして大田原署の事情聴取に述べた内容を次のように書いている。
経営不振だったホテル
〈 おかみのウメが失踪、その後、主人の鎌輔も……生方さんは塩原門前の大火(1957年)の頃、それまでやっていた芸者置屋を改築してホテル日本閣(約330平方メートル)を開業。以前は旅館の番頭をしていて客扱いもうまかったが、自分で経営してみると案外うまくいかず、経営はだんだん苦しくなった。日本閣のなじみ客だった東京の建築会社社長から「390平方メートル増築して共同経営をしよう」と持ち掛けられ、生方さんがそれまでの日本閣の建物を現物出資という形で1959年ごろ、株式会社に切り替えた。
表面華やかに増築工事を始めたが、金が続かず、工事は外装だけで中断された。ますます苦しくなった生方さんは、同じ塩原で物産店や食堂をやっていたカウさんにも相談。カウさんも共同経営の話に乗って、増築の建物をカウさんが買い取ることで共同経営者になった。その際、カウさんは地代分として現金30万円を渡したという。ウメさんの姿が見えなくなったのはその2〜3日後。タンスはもぬけの殻で、30万円もなくなっていたという。
その後も日本閣の経営は思わしくなく、カウさんは再建に300万円をつぎ込んだが失敗。生方さんは大みそかに一人、行く先も告げずに出かけたまま、なんの連絡もないという。〉
さらに翌20日の同紙には「“特別の別れ方した” 元同旅館の雑役夫語る」「事件の重要参考人とみられる塩原町塩釜、土工、大貫光吉さんが栃木新聞社大田原支局を訪れ、生方さん夫妻失踪の模様を次のように語った」という3段の記事が。概略は、以下のような内容だ。
「金がない」「ウメとは特別の別れ方をした」
〈失踪前夜の12月30日午後7時ごろ、昨年3月ごろから同旅館の雑役をしていた時の未払い賃金約9000円を請求するため、同旅館を訪れた。生方さんは茶の間で小林さんと酒を飲んでいたが、大貫さんが「年が越せないので、賃金を払ってくれ」と談じ込んだところ、「いま金がない。あす来てくれ」と言われた。
翌31日午前8時ごろ、再訪すると、小林さんが1万円札を出して「つりは仕事で相殺するからいい」と手渡してくれた。大貫さんは昨年8月ごろ、生方さんと2人だけで酒を飲んだことがあるが、生方さんは盛んに経営不振をこぼしており、「ウメとは特別の別れ方をしてきた」と漏らした。大貫さんが「特別の別れ方とは?」と聞いたところ、言葉を濁したという。〉
栃木は当時カウに「じか当たり」しており、その笑顔の写真を2月25日付に載せている。写真説明は「逮捕寸前、本社記者に対して『どういうわけか、いつの間にか鎌輔さんもウメさんも姿を消してしまったのです。私も心当たりを探しているのですが……。写真? どうぞ』と胸を張るカウ」となっている。ここまではカウと大貫の供述だが、20日付栃木が大貫を「重要参考人」と書いたように、この時点で警察はもちろん、新聞もカウと大貫が「怪しい」と見ていたのは間違いない。
「日本閣のおかみさんがいなくなった後、共同経営者としてカウが乗り込み、主人までいなくなった」ことは、塩原の温泉街のうわさとして広まり、警察も既に重大な関心を持って内偵を進めていた。『栃木県警察史 下巻』(1979年)はその点について詳しく書いている。端緒は栃木新聞が書いたようにウメの実弟からの届け出だった。
「置き手紙も姉が書いたものではないようだ」
〈 願出人・相沢福太郎の姉、生方ウメ(48)は1935(昭和10)年ごろ、塩原温泉で旅館の番頭をしていた生方鎌輔(53)と結婚。1953(昭和28)年ごろ、塩原町下塩原に小さな芸者置屋を開業し、2年後に改築してホテル日本閣として旅館業を始めた。改築のための借金やその後の経営不振も重なって鎌輔はノイローゼ気味になり、1年間ほど、宇都宮市内の精神科病院に入院。退院後はウメとともに旅館を経営してきた。
ところが1960年2月初めごろからウメの姿が見えなくなり、相沢は鎌輔から「ウメは2月12日に置手紙をして30万円ばかり持って家出した」と知らされた。しかし、その後「姉からは便りもなく、置き手紙も姉が書いたものではないようだ」という。この旨は塩原警部補派出所長から大田原署長に報告され、家出についての不審点解明の極秘内偵は福渡巡査駐在所巡査に下命された。〉
カウらの逮捕後の2月24日付栃木は「ナゾを解いた聞き込み」の見出しで大田原署捜査班の内偵の状況を伝えている。それによれば、捜査課長ら4人が連日「塩原通い」をして聞き込み捜査を続行。ウメが「母親の形見」として身に着けていた櫛とかんざしをカウが持っていたことから、ウメがカウらに殺されたことを確信した。カウは「使えるものは使わないともったいない」と、ウメの布団などもそのまま使っていたという。『栃木県警察史 下巻』の記述は続く。
“鎌輔の筆跡で書かれた”置き手紙が決め手に
〈 1960年4月30日、大田原署で県警捜査幹部も出席して「生方ウメ失踪事件」の検討会が開かれた。その結果——。
1.生方ウメが家出した時の置き手紙は、筆跡鑑定の結果、夫生方鎌輔の筆跡である
2.ウメが弟福太郎に宛てて東京から投函した2月23日付消印の手紙は、同様に夫鎌輔の筆跡
3.鎌輔はウメ失踪前後の2月8〜12日の行動について、相手によって違った説明をしている
4.ウメが失踪した直後から、鎌輔は小林カウという女を引き入れて同棲生活を送っている
5.鎌輔は、妻が「家出」しているというのに捜索願を出していない
6.小林カウは塩原町で物産店を経営しているが、鎌輔にホテル改築資金を貸しているらしく、以前から鎌輔方へ出入りしていた
—ーなどの点が明らかになった。直接的な決め手を欠いているため、なお鎌輔の精神状態や行動、カウの性向、来歴などを追及する必要があり、継続内偵を進めることになった。〉
もう1つの地元紙・下野新聞の2月23日付「ニセ手紙、東京で投函」の記事では、偽装工作について県警刑事部長がインタビューに答えている。
〈「ウメさんの名前で昨年2月21日、『私を探さないでほしい』との書き置きを発見。筆跡鑑定の結果、ウメさんの直筆ではなく、鎌輔が東京の地質学の先生のところへ温泉の相談に行った時、書いて投函したことが分かり、日付も一致したのが大きな決め手になった」〉
下手な偽装工作が裏目に出たわけだ。鎌輔失踪の8カ月も前に、警察はここまで材料を集めていた。『栃木県警察史 下巻』の記述はさらに続く。
「ウメさんは殺されている」といううわさ
〈 1960年5月13日、大田原市内で壊れた鍵を付けた中古自転車に乗っていた不審者を大田原署員が職務質問。当時日本閣雑役夫の大貫光吉(37)で、鹿沼市内で盗んできたと自供したので緊急逮捕した。窃盗容疑の調べの後、日本閣の内部事情についても参考までに聴取すると、大貫は「ウメさんは殺されている」といううわさが立っているが、家出したのが本当だ、と強調した。40日後に保釈になったが、身元引受人はカウほか1名であり、以後は大貫に対する内偵も進めることになった。だが、ウメ失踪事件は他殺の確証が得られないまま時が経過した。〉
同書はカウのそれ以前の足取りにも触れている。
〈 カウは埼玉県熊谷市で自転車卸業をしていた小林秀之助と暮らしていたが、1952(昭和27)年ごろ、秀之助が病死。1954(昭和29)年ごろ、塩原温泉に移ってきた。その後、漬け物販売の物産店を開き、着々と業績を挙げて、近くに飲食店も経営するまでになった。1958(昭和33)〜1959(34)年ごろから日本閣に出入り。ウメの失踪後は日本閣の経営に腕を振るっているとの風評もあり、塩原町ではもっぱら、カウが日本閣を乗っ取るため、鎌輔と共謀してウメを追い出したといううわさが立っていた。
1961年1月、日本閣に出入りしている人から「近頃、鎌輔の姿が見えない。金策に出かけたまま帰ってこないという話だ」との情報が寄せられた。
ウメに続いて鎌輔まで姿を消すとはますます不審。大田原署では県警本部と協議。殺人容疑事件として2月14日、捜査本部を設置して事件解決に全力を挙げることになった。
その結果、カウに対する容疑が濃くなるとともに、鎌輔失踪後は大貫の態度も急変。カウとなれなれしく口を利くようになるなど、数々の疑点が浮かび、両名の犯行と合理的に推理できる状況になった。〉
そして、ついに強制捜査に——。
〈 「人間と思わず、犬か猫を殺すつもりでやるのよ」出刃包丁を突き刺してえぐり、死体は床下に…「悪魔」と呼ばれた女が隠していた“もう一つの殺人”《ホテル日本閣事件》 〉へ続く
(小池 新)
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