【世界史ミステリー】最強モンゴル軍が西ヨーロッパに侵攻しなかった決定的理由

2025年5月12日(月)6時0分 ダイヤモンドオンライン

【世界史ミステリー】最強モンゴル軍が西ヨーロッパに侵攻しなかった決定的理由

【世界史ミステリー】最強モンゴル軍が西ヨーロッパに侵攻しなかった決定的理由「地図を読み解き、歴史を深読みしよう」人類の歴史は、交易、外交、戦争などの交流を重ねるうちに紡がれてきました。しかし、その移動や交流を、文字だけでイメージするのは困難です。地図を活用すれば、文字や年表だけでは捉えにくい歴史の背景や構造が鮮明に浮かび上がります。本連載は、政治、経済、貿易、宗教、戦争など、多岐にわたる人類の営みを、地図や図解を用いて解説するものです。地図で世界史を学び直すことで、経済ニュースや国際情勢の理解が深まり、現代社会を読み解く基礎教養も身につきます。著者は代々木ゼミナールの世界史講師の伊藤敏氏。黒板にフリーハンドで描かれる正確無比な地図に魅了される受験生も多い。近刊『地図で学ぶ 世界史「再入門」』の著者でもある。

Photo: Adobe Stock

モンゴル帝国の誕生

 1206年。この年、モンゴル高原の東に流れるオノン川の源流近くで、モンゴル諸部族の指導者らが集い、クリルタイと呼ばれる会合が開かれます。

 このクリルタイで、ある人物がモンゴル諸部族全体の君主に推戴されます。彼の名はテムジンといい、遼(契丹)の崩壊以来、諸部族による抗争に明け暮れたモンゴルの統一に成功します。テムジンは君主号である「カン(ハン)」を名乗り、これよりチンギス・カンと呼ばれます(在位1206〜1227)。これが、「大モンゴル国(イェケ・モンゴル・ウルス)」、通称モンゴル帝国の建国です。

モンゴルからイスラーム、ヨーロッパ世界へ遠征

 これより、モンゴル人によるユーラシアを股にかけた大規模遠征が繰り広げられます。チンギスは手始めにナイマンを降し、続いて当時イスラーム世界で強勢を誇ったホラズム・シャー朝に壊滅的な打撃を与えます。

 さらに、武将のスブタイに命じて遠征を続行させ、スブタイはカルカ河畔の戦いでクマン(キプチャク)人とロシア諸侯の連合軍に大勝します。一方、チンギスは中国に取って返し、西夏に猛攻を加え滅ぼしますが、彼は滅亡の3日前に息を引き取りました。

 チンギスの跡を継いだのは三男のオゴデイ(オゴタイ:在位1229〜1241)で、彼はモンゴルの最高君主として他のカンと区別をつけるため、「カアン(大カン)」という称号を名乗ります。オゴデイはまず自ら軍を起こして中国進出を本格化し、金を滅ぼして(1234)華北を征服します。

 また、オゴデイ・カアンは甥のバトゥを総司令官に征西を命じ、バトゥはキエフ・ルーシ(ロシア国家の源流)を崩壊させ、さらに東ヨーロッパに侵攻します。下図(図27)はモンゴル帝室の家系図です。

出典:『地図で学ぶ 世界史「再入門」』

ヨーロッパ侵攻、そして突然の撤退

 バトゥは歴戦の武将スブタイとともにハンガリーに迫り、1241年のモヒ(シャイオ川)の戦いでハンガリー王国に壊滅的な打撃を与え、また別働隊はポーランドに侵攻し、糧秣をはじめとする物資の確保のため各地を荒らしまわります。

 バトゥの征西軍はさらに西ヨーロッパに迫りますが、オゴデイの訃報と兵站の確保を理由に引き返します。これにより西ヨーロッパは、かろうじてモンゴルの襲来を免れたのです。

(本原稿は『地図で学ぶ 世界史「再入門」』を一部抜粋・編集したものです)


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