もしアンゲラ・メルケルが今もドイツ首相のままだったら、世界の混乱はなかった? トランプ、プーチンと互角に渡り合った「世界一の宰相」に学ぶ、強権的独裁者との付き合い方
2025年5月27日(火)7時0分 文春オンライン
ロシアのウクライナ侵攻が始まったのは2022年2月。その2ヶ月ほど前に、ヨーロッパの大国・ドイツの首相を4期16年にわたって務めたアンゲラ・メルケルが政界を引退している。
科学者出身の女性宰相として、在任中はロシアのプーチン大統領、中国の習近平主席、そして第一次政権時代のトランプ大統領といった厄介かつ強権的な指導者と渡り合ったメルケル氏は、2014年のロシアのクリミア半島侵攻に際しては、戦火を一日でも早く終わらせるために精力的に動いたことでも知られている。もしもメルケルが首相を続けていたら、今ある世界の混乱のかたちは変わっていたかもしれない———。
この5月に久々の来日を果たすメルケル。その素顔に迫った決定的評伝『 メルケル 世界一の宰相 』(カティ・マートン著、文藝春秋刊)から、“宿敵”だったロシアのプーチン大統領、そして第一次政権時代のトランプ大統領とのエピソードを再構成して紹介する。
「第一の宿敵」はロシアの冷酷な独裁者

「女性」「東独出身」「理系出身」という“三重の枷”を乗り越え首相に就任し、ドイツを欧州トップ国に導いてきたメルケルにとって、宿敵とも言うべき存在が、ロシア大統領のプーチンである。冷酷な独裁者であるプーチンと、西側世界の民主主義を守るメルケルとでは、そもそもの価値観が真逆で相容れないからだ。
じつはメルケルは、東独での少女時代にロシア語弁論大会で優勝もしており、ロシア社会や文化への造詣が深い。だからこそ、プーチンの本質を早い段階で見抜き、危惧していた。プーチンが手本にしているのは、かつての独裁者スターリンなのではないのか、と。
一方のプーチンは、メルケルが首相になって間もない頃、「ミセス・メルケルはロシアに多大な関心を寄せている。そして、ロシア語を話す!」と誇らしげに語っていた。
しかし、その好印象は長く続かなかった。メルケルが人権問題に関心を寄せていると知ると、警戒心を抱くようになる。そしてKGBの元諜報部員らしく、メルケルの弱点を調べはじめた。“メルケルいじめ”を仕掛けるためだ。
2007年、黒海に面したソチで行われたプーチンとメルケルの2度目の会談で、“事件”は起きた。
じつはメルケルは過去に犬に2度噛まれたことがあり、犬を怖がるという情報をプーチンは手に入れていた。それゆえプーチンは、自分の愛犬である黒いラブラドールレトリバーのコニーを、あろうことか会見部屋へと入れたのだ。メルケルのまわりをまわって、匂いを嗅ぐコニー。メルケルは両膝をぴたりとくっつけて、足を椅子の下に入れて、落ち着かない様子だった。その間、プーチンは不敵な笑みを浮かべていた。
腹を立てたメルケルは、側近にこうこぼした。「プーチンはあんなことをするしかなかった。ああやって自分がいかに男らしいかを見せつけた。これだからロシアは政治も経済もうまくいかないのよ」。
だが、その後も性懲りもなくプーチンの“メルケルいじめ”は続いた。自身の力を誇示するために、メルケルとの会合に遅れて現れたのだ。遅刻を諌められるとプーチンは「ああ、君との仲ならこのぐらい普通だろう」と肩をすくめた。
メルケルによると「(プーチンは)人の弱点を利用する。一日中でも人を試している。やりたい放題にやらせていたら、こっちがどんどん卑屈になってしまう」。
とはいえ、プーチンはメルケルを卑屈にさせることはできなかった。
メルケルも、ここぞというタイミングでプーチンに攻勢をかけたのだ。
2006年10月、チェチェン紛争におけるロシアの残忍さを記事にしたジャーナリストが射殺されるという痛ましい事件があった。奇しくもその日はプーチンの54回目の誕生日であり、このタイミングでの殺人は偶然ではない、との推測が飛んだ。
その数日後のこと。ドレスデン城の前で黒いリムジンを降りたプーチンに、メルケルは不意打ちを食らわせた。集まった報道陣を前にメルケルはこう言い放ったのだ。
「あれほどの暴力行為にショックを受けている」
「この殺人事件はかならず解決されなければならない」
意表を突かれたプーチンは、思わずこう口走った。
「あのジャーナリストはロシア政府をこきおろした」
「あの殺人がロシアに害を及ぼすことはない」
「彼女が書いた記事に比べれば害は少ない」
まるでその殺人事件の真の被害者が、自分であるかのような支離滅裂な言い訳を並べたのだ。
プーチンの下で人権侵害と残虐行為が行われていることを、臆せず指摘したメルケル。歴史が、あるいは国際刑事裁判所が、プーチンの責任を問うかもしれない、とほのめかして牽制し、きっちりと仕返しをしたのだ。
警察国家である東独で育ったメルケルは、プーチンの狡猾さや冷淡さを身をもって理解していた。だから、プーチンの人間性や良心に訴えることはしなかった。そんなことをしても無駄だと分かっていたのだ。
もう一人の厄介な指導者=トランプ
メルケルが在任中に遭遇した厄介な男性指導者はプーチンだけではなかった。プーチンとはタイプが違うものの、やはり民主主義的な価値観とは程遠い人物がいた。2016年の選挙で民主党候補ヒラリー・クリントンを破り、第45代アメリカ大統領に選ばれたドナルド・トランプである。
彼のような人物を民主主義的な考え方に改宗できると思うほど、メルケルは世間知らずではなかった。それゆえトランプとの初会談に備えるべく別途、対策を練ることにした。
メルケルは、1990年にプレイボーイ誌に掲載されたインタビューを読んだ。発言内容は今と変わらぬ罵詈雑言と“負け犬”への侮辱、そして自己賛美のオンパレードだった。「私は他人を信用せず、敵をたたきのめす(ことが好きだ)」とトランプは誇らしげに語った。
メルケルはトランプ研究を進めるため、さらに『トランプ自伝—不動産王にビジネスを学ぶ』も手に取った。実際の結果とは無関係に、ただひたすら「勝った」と主張するだけの人物像が見てとれた。
さらにメルケルは、「お前はクビだ!」のセリフでお馴染の、トランプ出演の人気リアリティ番組『アプレンティス』を観るという苦行にも耐えた。これもすべて、トランプの癖──身振り手振りや不快なときの表情、そして愛想のよい態度から恐ろしい剣幕へと豹変する、計算され尽くした変わり身の早さ──をよく知っておくためだ。
そのうえで、メルケルは、アメリカ政治界に精通しているインサイダーたちにもアドバイスを求めた。
これら事前の調査によって、トランプと対峙したときに、どのように振る舞えばよいかが見えてきた。トランプを相手にするには、最大限の自己抑制を発揮しなければならない。
というのも、トランプは世間からの評価を熱烈に欲しがっており、うっかり他人が注目を集めようものなら嫉妬心を燃やすことがわかったからだ。
メルケルの握手をトランプが無視
そしてホワイトハウスで迎えた2017年3月の会談当日。大統領執務室へメルケルを迎え入れたトランプ。だが早速、険悪なムードが漂いはじめる。メルケルが差し出した握手の手を、トランプは無視したように見えたのだ。
記者団とカメラが去ると、トランプはかつてリアリティ番組でよく使っていた戦術に切り換えた。すなわち、競演者たるメルケルの調子を狂わそうと試みたのである。
「アンゲラ、あなたは私に1兆ドルの借りがある」とトランプは怒気を含んだ低い声を出した。ドイツがNATOの負担金を十分に払っていないというのが彼の主張だった。
「そのような仕組みにはなっていません」。メルケルは冷静に切り返し、NATOはみなが会費を払うクラブとは違うと指摘した。しかも、米国もまたドイツに“借り”があるとも伝えた。この“借り”とは、ドイツ各地に広がる米軍基地のことであり、米国にとって中東とアフガニスタンの軍事作戦に欠かせない拠点となっていた。
だが、それ以上のことはあえて言わなかった。ドイツが極めて平和主義で反戦的であるなどと伝えるのは、トランプの理解力の幅を超える恐れがあったからだ。
トランプはまた、これほど多くの難民をドイツが受け入れるのは「正気の沙汰ではない」とメルケルを批判してきた。対してメルケルは、アメリカの影響を強く受けたドイツ憲法やジュネーブ条約に明記されている“難民の権利”に関するルールを紹介した。
トランプはメルケルをさえぎるように急に話題を変え、最近の自分の支持率について話し出した。難民問題というテーマよりこちらのほうが楽しいからだ。
トランプは次から次へと乱暴に話題を変えるクセがある。メルケルは、トランプとの距離を慎重に見定め、微調整を重ねるようなやり方を貫いた。決してトランプに教え諭すことなく、洪水のように大量の事実を突きつけることも避け、物事について控え目に説明した。
メルケルは大言壮語する男の扱いに慣れており、猛獣使いのように低く落ち着いた口調を維持した。トランプにとって大事なのは、かっこよく見せ、威張ることだった。メルケルは尋常ならざる自制心を発揮し、トランプという現実を受け入れて、その中で最善を尽くした。すると驚くことにトランプは、最後はメルケルの話をちゃんと聞くようになったのだ。
初会談を終えたメルケルがベルリンへの帰途に就くタイミングで、トランプはSNSでこうつぶやいた。「フェイクニュースがどんな報道をしていようとも、ドイツ首相アンゲラ・メルケルとの会談は大成功だった」
二人の“独裁者”とわたり合いながら、守るべき価値観をぶらさず、自国、ひいては国際社会の安定に寄与したメルケルに学ぶことはまだまだ多い。いまこそ、彼女のなしてきたことにあらためて目を向けるときではないだろうか。
(「本の話」編集部/本の話)
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