「昭和天皇に裏切られた」人々が引きずり続けた喪失とは?
2025年5月29日(木)7時0分 文春オンライン
2025年は戦後80年にあたる。その間の日本人の魂の遍歴を、文学者の言葉はどのように記録してきたのか? 歴史家・與那覇潤さんの初めての文芸評論『 江藤淳と加藤典洋 戦後史を歩きなおす 』から、「あとがき」を全文公開する(全3回の第1回/ 続きを読む )

◆◆◆
独白と背信
江藤淳と同じく、父としての昭和天皇に「裏切られた」人に中井久夫がいる。本業の精神医学のほかに、エッセイや史論の名手としても知られた。1934年の生まれだから、年も江藤とほぼ変わらない。
昭和天皇が亡くなってまもない89年の5月、中井は保守派の雑誌『文化会議』に、「「昭和」を送る ひととしての昭和天皇」という長文を寄せた。日本の戦争責任には厳しく言及しつつも、天皇の人柄を医師らしく温かいまなざしで描き、好評だった。
しかしそれを自身の書物に入れるには、ほぼ四半世紀を要している。なぜか。
ひとつはやはり90年の末、『昭和天皇独白録』の公刊だ。もっとも江藤とは違って、中井は天皇が大戦末期、人命以上に三種の神器のゆくえを案じたことに失望した。「アメリカがもし原爆を投下する代わりにコマンドを派遣して三種の神器を奪っていたら、どうなったであろうか」。取り戻すまで戦争を続けたのかと問う、痛みに満ちた皮肉である。
「父」を許すか否か
もうひとつは『入江相政日記』によって、東京裁判の判決が出た日、文民の死刑が1名に留まったことを祝して、宮中で宴会があったと知ったことだ。
首尾よく軍にのみ責任を負わせたことを喜ぶ姿は、中世の「保元平治の時、公卿たちが北面の武士を虫けら同様に扱っていたことを思い合わせた。しかし、天皇がこの宴に加わっていたとしたら、天皇は私には許容しえない一線を一夕は越えたことになる〔1〕」。
日本人は戦争を反省しなかった、すぐに忘れた、とする紋切り型の物言いが、いかに空疎かがこの一事でもわかる。
半世紀近い時を隔ててもなお、父を許すか否かを、敗戦時には少年だったひとりひとりが問うていた。「悪しき母性性」(?)と呼ぶのが妥当かはともかく、そうした営みが曖昧で忘却まじりの祈りへと溶けきったのは、より最近、平成も半ばを過ぎてのことだろう。
〔1〕中井久夫『「昭和」を送る』みすず書房、2013年、121・122頁。
〈 上野千鶴子はなぜ江藤淳を批判しつつ評価したのか 〉へ続く
(與那覇 潤/文藝出版局)