「5分の遅延で車掌がおわびする」のは日本だけ…アフリカ帰りの日本人が実感した「東京の生きづらさ」の正体
2025年3月28日(金)7時15分 プレジデント社
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/guenterguni
※本稿は、原貫太『世界は誰かの正義でできている』(KADOKAWA)の一部を抜粋、再編集したものです。
■「フリーランス」に居場所はあるのか
「なぜフリーランスになったのですか?」とよく尋ねられる。
たしかに、適応障害を患い、立ち上げた団体を辞めたことがフリーランスになる直接的なきっかけではあった。
しかし、今もこの働き方を続けているのは、フリーランスという形が自分に最も合っていると感じているからだ。
もちろん、フリーランスであっても他人との共同作業や協働が求められる場面はあり、息苦しさを感じることもあるし、ストレスが完全になくなるわけではない。
それでも私は運良く、自分に合った働き方を見つけられたと感じている。自分の特性に合った「居場所」さえ見つけられれば、誰でも自然に適応でき、生きやすさを感じ、時には他の人以上の力を発揮することさえできる。
フリーランスという「所属先がない」働き方が、逆説的に私にとっての「居場所」を作り出しているのかもしれない。
■「便利=生きやすさ」ではない
この考えは、日本を離れ、アフリカで活動をする過程でさらに深まった。
アフリカの貧困や飢餓といった過酷な現状を発信していると、「そんな大変な場所に行くなんてすごいですね」と驚かれることがある。
写真=iStock.com/guenterguni
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しかし、アフリカを「大変なことばかりの地」と見るのは、一面的な視点にすぎない。
たしかに、アフリカでの生活には不便さや危険が伴うことも多い。しかし、別の視点から見ると、私にとってアフリカは日本以上に「生きている実感」や「生きやすさ」を感じられる「居場所」でもあるのだ。
私の周りには、アフリカで活躍している友人や知人が少なくない。
その多くが、「日本では社会不適合者のように見られていたけれど、アフリカに来てからは生きやすくなった」と語る。彼らは、アフリカという地で自分らしく生きられる居場所を見つけたのだろう。
日本社会に漠然とした生きづらさを感じている人に対して、私は半分冗談のように「アフリカに行ってみたら?」と声をかけることがある。そして実際に、アフリカに渡り、現地の生活や文化に順応し、自分に合った居心地の良さを見つけている人も多い。
■東京にはなくて、ウガンダにあるもの
なぜ、不便なことも多く、決して楽とは言えない生活環境にもかかわらず、アフリカでの暮らしを「生きやすい」と感じるのだろうか。
その理由を解き明かすために、これからさまざまな観点から掘り下げてみたい。
私がアフリカでの生活に感じる生きやすさの鍵は、「余白」という概念にある。この「余白」とは、日常の中にある不確実性や、計画に縛られない柔軟さを指す。
東京とは特に対照的なウガンダでの生活を通して、私は日常に「余白」を見出すことができた。
私は学生時代からウガンダに関わり、現在も年に2回、数カ月間現地に滞在している。
首都カンパラを中心に、ウガンダでは経済発展が進む一方で、交通や電力のインフラ整備はまだ不十分であり、渋滞や停電が日常茶飯事だ。
しかし、一見すると不便に思えるこの生活の中に、不思議と心地よさを感じる瞬間がある。
なぜウガンダでの生活は、私にとって「生きやすさ」をもたらしているのだろうか。
その理由を、東京での生活と比較することで考えてみたい。
■数分の遅延を詫びる日本は「素晴らしい」のか
東京の生活は、分刻みで運行される電車をはじめ、世界有数の便利さを誇る。
効率性が徹底され、どんな予定も正確に進むことが前提とされている。
例えば、日本では電車が数分遅れるだけでも、車掌がアナウンスで謝罪し、乗客に理由を説明するほど時間管理が厳密だ。
写真=iStock.com/Mindaugas Dulinskas
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この正確さは「日本の素晴らしさ」として世界から称賛されることもあるが、その半面、遅刻やミスが「非効率」として厳しく評価されやすい。
こうした環境の中で、私は「時間に追われる感覚」に苛まれることが多かった。
さらに、効率性を最優先する社会では、空いた時間ができても「何かしなければ」という焦燥感に駆られることが少なくない。
近年では、「タイパ(タイムパフォーマンス)」の考え方が広がり、生活の中から「余白」が削ぎ落とされているように感じる。
例えば、映画を倍速で観たり、本を読む代わりに要約動画で済ませたりと、時間を最大限有効に使おうとする行動が顕著だ。
一見すると効率的だが、その結果、心の余裕や人間らしさが失われてはいないだろうか。
■「予定通りに進まない世界」の時間の流れ方
私のようにスケジュールに柔軟さを求める特性を持つ人間にとって、この「時間に追われる感覚」は特に息苦しさをもたらす。
効率性を追求する環境は、時に心を圧迫し、日々の生活に疲労感をもたらしているように感じる。
一方、ウガンダでは不確実性が日常の一部となっている。
渋滞や停電は珍しくなく、予定通りに進まないことが前提の文化が根付いている。そのため、時間管理も日本ほど厳密ではなく、生活の中に自然と「余白」が生まれる。
この「余白」がもたらす柔軟さは、現地の人々の態度や生活に色濃く表れている。
例えば、突然停電が起きても、それを嘆くのではなく、ランプやろうそくを灯し、家族や近所の人々と語らう時間に変えてしまう。
このような柔軟さが、私には心地よく感じられる。
「アフリカンタイム」という言葉が示すように、時間に追われず自然体でいられるリズムが、私にはしっくりと馴染むのだ。
不確実性がもたらす「余白」は、単なる時間の浪費ではなく、心にゆとりをもたらす大切な要素だと感じている。
■人間らしい生活に「余白」は欠かせない
もちろん、ウガンダでの生活には不便さも多い。
停電や断水が起きれば、それが現地の人々にとっても負担となるのは間違いない。
それでも、この「余白」は単なる不便さにとどまらず、人間らしい豊かさを取り戻すための鍵ではないだろうか。
東京の便利さには効率性や安心・安定という恩恵がある一方で、柔軟さが失われがちだ。
対照的に、ウガンダでは「余白」が心にゆとりをもたらし、人と人との絆を深めたり、予期せぬ出来事を楽しむ余裕を生んだりしている。
この違いこそが、私にとっての「生きやすさ」を大きく左右している。
原貫太『世界は誰かの正義でできている』(KADOKAWA)
ウガンダでの生活を通じて学んだのは、「余白」が人間らしい生活に不可欠だということだ。効率性が重視される社会は、私たちを機械のように効率的な存在へと近づける一方で、「余白」のある生活は、心のゆとりと人間らしさを取り戻してくれる。
日本とウガンダ、どちらが優れているというわけではない。
どちらにも魅力があり、どちらにもそれぞれの困難がある。
しかし、ウガンダで感じた「余白」が、私にとって人間らしく生きるための鍵であることは間違いない。
些細なことかもしれないが、ウガンダで「余白」の大切さを学んだ私は、日本の忙しい生活の中でも、日が沈む前の20分間は散歩をするよう心がけている。
写真=iStock.com/GRPimagery
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たったそれだけのことでも、生活の中に意識的に「余白」を作ると、心に自然とゆとりが生まれる。そして、そのゆとりが他人に対するほんの少しの優しさをもたらしてくれる。
アフリカで学んだ「余白」の価値には、私たちの社会をより生きやすくするためのヒントが隠されているのではないだろうか。
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原 貫太(はら・かんた)
フリーランス国際協力師
1994年生まれ。早稲田大学在学中よりウガンダの元子ども兵や南スーダン難民の支援に従事し、その後NPO法人を設立。講演や出版などを通して精力的に啓発活動を行う。大学卒業後に適応障害で闘病するも、復帰後はフリーランスとして活動を再開。ウガンダのローカルNGOと協働して女子児童に対する生理用品支援などを行い、現在に至る。2017年『世界を無視しない大人になるために』を出版。2018年3月、小野梓記念賞を受賞。
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(フリーランス国際協力師 原 貫太)