江戸時代の乾杯は一年中「お燗」…燗酒とセット販売された"つまみ"は花見にも重宝するコンビニの定番商品
2025年3月31日(月)18時15分 プレジデント社
江戸の呑み事情に思いを馳せて乾杯する漫画原作者の久住昌之さん(右)と食文化史研究家の飯野亮一さん。店主が文献や錦絵を紐解いて再現した江戸の酒菜で酌み交わすのは熱燗だ。[出所=『江戸呑み 江戸の“つまみ”と晩酌のお楽しみ』(プレジデント社)]
※本稿は、『江戸呑み 江戸の“つまみ”と晩酌のお楽しみ』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
■江戸の晩酌は家にいながら「酒の肴」を入手できた
【飯野】今夜は江戸っ子たちも呑んでいた灘の銘酒「剣菱(けんびし)」の燗酒で、江戸呑みを追体験しましょう。
【久住】まず「とりあえずビール」がないわけですよね(笑)。当然、冷蔵庫もない時代ですから、お酒は常温か燗酒ですね。
【飯野】江戸は通年、燗酒です。現代と比較するとだいぶ気温が低かったようです。だから夏でもお燗をして呑む。お燗が基本なので、温めていない酒は冷(ひや)となるわけです。
江戸の呑み事情に思いを馳せて乾杯する漫画原作者の久住昌之さん(右)と食文化史研究家の飯野亮一さん。店主が文献や錦絵を紐解いて再現した江戸の酒菜で酌み交わすのは熱燗だ。[出所=『江戸呑み 江戸の“つまみ”と晩酌のお楽しみ』(プレジデント社)]
【久住】どんなものをアテにしていたのかが気になります。だいたい「酒のアテ」という言い方はあったのかしら。
【飯野】ええ。「アテ」は関西の言葉で、江戸では「酒菜(さかな)(肴)」と言っていました。後に「つまみ」という言葉が出てきます。「酒菜」といえば酒を呑むことが前提。だから魚類の魚は「うお」と呼んでいました。「魚(うお)売り」ですね。肉を食べない時代、魚は酒のつまみとしてとても喜ばれたので、だんだん「さかな」と読むようになったのです。
【久住】へ〜!
【飯野】江戸の町には、天びん棒を担いで呼び声をあげながら食べ物を売り歩く「振り売り」がいて、家にいながらにして酒の肴が入手できました。
【久住】なんてありがたい!
【飯野】枝豆は夏の酒菜の代表格。枝豆売りは、ゆで上げた枝付きのままを抱えて「枝豆や〜、枝豆や〜」なんて声を出しながら売り歩きます。下の錦絵のように、江戸の枝豆売りは女性が多かった。長屋の路地を入った、射的のような遊戯場の土弓の前を売り歩いています。ゆでるだけで出来上がるので、子育てをしながらでも小遣い稼ぎができたのです。
赤ちゃんを背負い、枝ごとゆで上げた枝豆を傍らに抱えて長屋の前を売り歩く「枝豆」売り。『絵本時世粧』歌川豊国 享和2(1802)年。[出所=『江戸呑み 江戸の“つまみ”と晩酌のお楽しみ』(プレジデント社)]
【飯野】こんな川柳が残されています。
「枝豆は湯上り塩の夕化粧」(『新編柳多留14』天保一五〈一八四四〉年)なんてね。
【久住】湯気立ち上る枝豆に塩梅よく塩を振り、それで一杯、なんて情景が浮かびます。現代も変わらず、江戸で楽しまれていた酒のつまみのまま食べ続けられていることがなんだかうれしいです。
寛政年間(1789〜1801年)から売ることが流行し始めた枝豆。ゆで上げの香ばしい香り、振りかけた塩は夏の酒菜にもってこい。江戸は女性が多く、京坂は男性も町を売り歩く姿が見られた。[出所=『江戸呑み 江戸の“つまみ”と晩酌のお楽しみ』(プレジデント社)]
■枝ごと売るから江戸では「枝豆」、京阪は「さや豆」
【飯野】『守貞謾稿(もりさだまんこう)』には、江戸と京坂の枝豆売りの違いが書かれています。江戸では、枝ごと懐(いだ)いて売っているから「枝豆」。京坂は枝を除き、皮は取らずに肩に乗せて売るので「さや豆」と呼ばれます。売り声も「湯出(ゆで)さや、湯出さや」です。そして、涼しくなると、おでんと燗酒を売り歩き始めます。
【久住】おでん! 燗酒もセットで⁉ 向こうから売りに来てくれるとは、風情がありますねぇ。
【飯野】下の絵のように保温できる容器に燗酒を入れて、担いで売ります。テイクアウトすることも多かった。
江戸の町ではおなじみ「おでん かん酒」売り。湯を張った燗銅壺から燗酒を取り出している。『黄金水大尽盃』十六篇 元治2(1865)年。[出所=『江戸呑み 江戸の“つまみ”と晩酌のお楽しみ』(プレジデント社)]
【飯野】この頃のおでんは、こんにゃくや里芋を串に刺して湯に入れておき、注文が入ったら取り出して、味噌を塗って完成です。当時を再現したおでんを用意してもらいました。
【久住】どんな味噌を使っていたのでしょう?
【飯野】江戸の町では江戸味噌が流通していました。醸造が早く進むように麹の量を多くしたもので、結果的に甘味のある味噌になりました。
江戸のおでんは串に刺したこんにゃくと里芋が定番。大豆とほぼ同量の米麹を使う甘口の江戸味噌を塗って一丁上がり。[出所=『江戸呑み 江戸の“つまみ”と晩酌のお楽しみ』(プレジデント社)]
【久住】冷え込む晩など最高ですね。とくに一人暮らしにはありがたかったことでしょう。
【飯野】「アゝ、寒ひ晩だ。風鈴か、蒟蒻(こんにゃく)のおでんがくればいゝ」(『人心鏡写絵』寛政八〈一七九六〉年)なんて心待ちにされている様子が描かれています。
風鈴とは蕎麦(そば)売りのことです。冬だけでなく、旧暦の六月、今でいえば七月頃の夕涼みをするような季節になると、もう売り歩き始めていました。
【久住】かなり早いですね。では、今でいう煮込んだおでんが登場したのはいつ頃なのでしょうか。
■おでんを煮込むようになったのは明治時代
【飯野】煮込みおでんに発展するのは明治時代です。八つ頭やすじ、ちくわといった練り製品も具になります。もともと、江戸時代から練り製品の技術があり、はんぺんもつくっていましたから、おでんを煮込むようになって加えたのでしょう。
『太平洋』明治36(1903)年12月[出所=『江戸呑み 江戸の“つまみ”と晩酌のお楽しみ』(プレジデント社)]
【久住】僕がおでんを最初に食べたのは家庭の食卓だけど、生まれ育った三鷹では公営プールの隣におでん屋がありました。当時は1本10円とかでおでんを買って。子どもながらに、プール上がりのおでんが楽しみでしたね。
【飯野】明治三六年一二月の史料の図版があります(右)。こんな光景だったのでは。ご覧のように煮込みおでんの普及とともに、おでん売りの看板は「煮込み」と書かれるようになりました。
【久住】もつ煮込みじゃないですよね?(笑)
【飯野】江戸時代の田楽味噌のおでんと区別する意味で煮込みおでんとしていましたが、そのうちにおでん=煮込みと認識され、「煮込み」の文字が取れていきます。図版の史料にはこんなふうに出ています。
『江戸呑み 江戸の“つまみ”と晩酌のお楽しみ』(プレジデント社)
「焼豆腐、飛竜頭(がんもどき)、蒟蒻、八つ頭、蒲鉾、するめ、姥貝(うばがい)、すじ、玉子といった様なものと他に茶飯を添へてるものもあるが、此地(ここ)の客は口が奢ってゐるなと思ふと其等(これ)らのものの外に鳥、篠田巻、白瀧、鳥貝、蛸の櫻煮などの上物から口取(くちとり)まがひのものまで拵える、こうなるとおでんやもなかなか贅澤なもので、三四十銭ぐらいの財布をハタかせるのも造作もない」。
【久住】具の種類も格段に増えたようですね。
【飯野】図版の屋台には車輪がついています。江戸時代に屋台はありましたが、車輪がつくのは明治以降。種を増やしても運べるようになりました。
【久住】な〜るほど。
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久住 昌之(くすみ・まさゆき)
漫画家・ミュージシャン
1958年、東京都三鷹市生まれ。法政大学卒業後、美学校に入学し、赤瀬川原平に師事する。81年に、美学校の同期生、泉晴紀とコンビを組み、「泉昌之」として「ガロ」誌で漫画家デビュー。漫画原作や装丁家、エッセイストとしても活躍。女性漫画原作に挑戦した『花のズボラ飯』で、「このマンガがすごい!2012」オンナ編1位を獲得。官能的な食事シーンが話題となった。谷口ジローとコンビを組んだ『孤独のグルメ』は、ヨーロッパ数カ国やブラジルで翻訳出版されている。2012年1〜3月にはTVドラマ化されて好評を博した。ドラマでは、自身のバンドが音楽を担当。DVDBOXとサントラCDが発売された。
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飯野 亮一(いいの・りょういち)
食文化史研究家
元・服部栄養専門学校理事。著書に『居酒屋の誕生 江戸の呑みだおれ文化』『晩酌の誕生』(ともにちくま学芸文庫)など。
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(漫画家・ミュージシャン 久住 昌之、食文化史研究家 飯野 亮一 文=江戸呑み連中 料理=海原大「江戸前 芝浜」店主 撮影=大沼ショージ)