被害者を見殺しにしたフジテレビ幹部と似ている…武力◎知略◎なのに「天皇のため」で自滅した史上最強の忠臣
2025年4月9日(水)16時15分 プレジデント社
皇居外苑にある楠木正成像(写真=David Moore/CC-BY-SA-2.5/Wikimedia Commons)
■皇居の一角にある騎馬姿の武将の正体
皇居外苑の、江戸時代には江戸城西の丸下と呼ばれ、幕府の重臣たちの屋敷が建ち並んでいた一角に、楠木正成の巨大な銅像があります。花崗岩の台座だけで高さが4メートルあり、銅像だけでも同じく4メートル、重量は6.7トンもあるそうです。明治33年(1900)年にここに据え付けられました。
皇居外苑にある楠木正成像(写真=David Moore/CC-BY-SA-2.5/Wikimedia Commons)
住友家が別子銅山開坑200年を記念して東京美術学校に制作を依頼し、高村光雲らが10年がかりで技術の粋を尽くして制作、宮内庁に献納したそうです。では、なぜ皇居外苑の一等地に、この像が立っているのでしょうか。それは楠木正成が天皇のために忠誠を尽くした英雄として評価されていたからで、明治政府はこの像によって、天皇への忠誠心の模範を示そうとしたのです。
では、正成が示した「天皇への忠誠心」とはどんなものだったのでしょうか。それを見ていきましょう。
正成が忠誠を尽くした天皇とはいうまでもなく、鎌倉幕府を滅亡へと導き、建武の新政をはじめた後醍醐天皇です。昔のような天皇親政を企てていた天皇は、討幕計画が幕府に漏れると元弘元年(1331)9月、笠置山(京都府笠置町)に逃げ、そこで元弘の乱を起こします。しかし、戦況は芳しくありません。
『太平記』には、そんな折に楠木正成と出会ったと記されています。
■天皇が夢で聞いたお告げ
それによれば、後醍醐天皇は夢を見たのだとか。夢のなかで天皇は、2人の童子に大きな木の南向きの枝の下に案内されたそうで、それは「木の南」、つまり「楠」の下に座って天下を治めろという神仏のお告げかもしれません。そこで天皇は、近くに「楠」という武士はいないかと聞き、河内国(大阪府東部)の金剛山(大阪府千早赤阪村)の西に、楠木正成がいると知ります。
呼ばれた正成はすぐに笠置山に参上し、討幕を成し遂げるには武力に加えて謀を巡らすべきだと奏上したとのことです。
『太平記』は軍記物語だから、こうした逸話は史実とは言い切れません。それでも、この話からは、正成という男が突如、後醍醐天皇の前に現れたということ、それから、さまざまな策略をもちいて戦ったということ。その2つがわかります。
文観房弘真『絹本著色後醍醐天皇御像』清浄光寺蔵(写真=『見る・読む・わかる日本の歴史 2』朝日新聞社/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
正成の出自についてはいまも確定はしていません。楠木氏自身はその出自を、奈良時代に聖武天皇のもとで実権を握った橘諸兄(たちばなのもろえ)だと主張していましたが、本当の祖先は駿河(静岡県東部)出身だという説が有力で、鎌倉幕府の御家人だった可能性も否定できません。いずれにしても「悪党」的な人物だったのではないかとされています。
「悪党」とはならず者やごろつきという意味ではなく、荘園領主や幕府権力の介入を排除して、みずからの土地の支配権を既成事実化していった武士の呼称でした。
■「謀」が冴えたデビュー戦
さて、正成は後醍醐天皇の討幕計画に賛同して、金剛山の近くに築いた下赤坂城(大阪府千早赤阪村)に500余りの軍勢を集めて挙兵します。しかし、幕府軍は数万の規模ですから、勝負になりません。そこで前述のとおりに「謀」、つまり奇策に頼ります。
敵が城に近づけば、弓矢で応戦するだけでなく大きな石や大木を投げ落としたり、熱湯をかけたりし、さらには、吊り下げていたニセの塀を切り落とすなどして抵抗したとされます。そもそも幕府軍がこれだけの大軍勢で城を攻めたのは、正成がただ者ではないと認識していたからだと考えられ、実際、幕府軍は攻めあぐねます。
赤坂城の戦い(『大楠公一代絵巻』、楠妣庵観音寺蔵)(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons)
とはいえ包囲された城は兵糧にかぎりがあり、そもそも急造の城を少ない軍勢で持ちこたえるのは困難です。そこで正成は、城に火を放って脱出します。城にはいくつもの焼死体が残されていたので、幕府軍はそれが正成一族のものと判断し、湯浅宗藤(ゆあさ・むねふじ)に城を守らせて関東へ帰陣します。
そこに現れたのが正成でした。彼は自刃したと偽装していたのです。元弘2年(1332)4月、湯浅宗藤が城に運び込もうとしていた兵糧を奪い、それを運んでいた人夫らを自分の兵と入れ替え、城内に入って鬨の声を上げ、城を簡単に奪い返してしまったのです。このとき地元に根差した勢力だった湯浅氏を味方に取り込んで、河内のほか和泉(大阪府南西部)まで制圧してしまいます。
■8万の軍勢にも一歩も引かなかった
その後も正成の「謀」は冴えます。摂津(大阪北西、南西部と兵庫県東部)に侵攻した正成を討つために、六波羅探題は5000の軍勢を差し向け、川の対岸にいる正成の軍に襲いかかりますが、じつは正成は2000の軍を3手に分け、2手は隠していました。川の深みで三方から攻められた六波羅軍は、ほとんど殲滅させられてしまいます。
その後、周囲の民間人を動員し、各所で毎晩松明を燃やして脅し、相手方を不安にするという手法で、戦わずして四天王寺(大阪市天王寺区)を奪取します。
元弘3年(1333)2月以降は、下赤坂城の背後の金剛山中腹に上赤坂城、詰めの城(最後の拠点)としての千早城(ともに大阪府千早赤阪村)を築き、千早城に籠って、8万ともいわれる幕府軍を前に、例によって石やら火やらを駆使して一歩も引きませんでした。
こうして正成が幕府軍を千早城に引き寄せているあいだ、閏2月には、後醍醐天皇が流されていた隠岐から脱出し、5月には足利高氏(のちの尊氏)が六波羅を攻め落すと、その報せを受けた幕府軍は千早城の包囲を解いたので正成も勝利。そして5月22日、新田義貞が鎌倉を攻め、鎌倉幕府は滅亡したのです。
■実は尊氏を味方にしようと進言していた
6月5日に京都に戻った後醍醐天皇は念願の建武の新政をはじめます。鎌倉幕府を倒した武士たちは、もちろん厚遇されると期待したでしょう。ところが、平安時代初期までのように親政、つまり天皇がみずから政治を行うことをめざした後醍醐天皇には、自分をもり立て幕府を倒してくれた武士のことが、頭になかったようです。
結局、公家ばかりが優遇され、恩賞もほとんどあたえられなかった武士たちは、不満を募らせます。こうして、あらたな武家政権樹立の機運が高まっていきます。この状況は、どう考えても、後醍醐天皇が現実を見ることができなかったことにあります。
絹本著色騎馬武者像(写真=国立博物館 e-museum ID : 101003/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
建武2年(1335)7月、北条氏の残党が鎌倉を一時的に占拠する中先代の乱が起きます。そして、討伐に向かった足利尊氏は、建武の新政に不満を持つ武士たちの意を受け、後醍醐天皇に離反します。
その後、上京した尊氏の軍勢は、正成らの「謀」をもちいた戦いで九州へと駆逐されますが、問題はその後です。
南北朝時代の軍記物語『梅松論』には、正成が、新田義貞を誅殺してでも尊氏と和睦したほうがいい、と天皇に進言したと書かれています。事実、自身が戦巧者だった正成は尊氏を武将として、義貞よりもはるかに高く評価していました。しかし、この進言は歯牙にもかけられなかったとのことです。物語の記述だから鵜呑みにはできないとはいえ、信憑性が高いと思われます。
九州で体制を整えた尊氏が京都へと向かってくると、後醍醐天皇らは京都の外に出て、尊氏らを京都に閉じ込めて兵糧攻めに、と提案をしますが、またしても却下されたとのことです(『太平記』)。
■フジテレビの役員との共通点
結局、「謀」を嫌い、勝敗を度外視して正面突破を意図する新田義貞の考えが、後醍醐天皇側を支配し、正成は従うほかなくなり、絶望的な状況で建武3年(1336)5月25日、楠木・新田連合軍として湊川(神戸市中央区、兵庫区)で足利軍に対峙。義貞と分断されたのちに敗北して、弟の正季と刺し違えて死んだと伝えられます。
これが「天皇への忠誠心の模範」と讃えられた楠木正成の最期ですが、私には、さぞかし無念であったと思えてなりません。時代が読めない天皇の失政によって、武士の不満が高まって大きな反政府勢力になりました。その責任は、ほかならぬ後醍醐天皇にあったとしか考えられません。
しかし、天皇親政を成功させるなら、足利尊氏を取り込むしなかいと判断し、そう進言しても受け入れられず、尊氏と戦うなら奇策に打つしかないと訴えても却下されます。そもそも時代を動かす武士から強い反発を受けている状況で、勝ち目はないと考えていたようです。それでも、頑迷な後醍醐天皇に最後まで従って滅びました。
写真=iStock.com/Phurinee
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Phurinee
気の毒ですが、見方を変えれば、被害者を度外視して会社への忠誠を守り続けたフジテレビの役員や幹部社員と、同じ姿勢だといえないでしょうか。国民も国土も顧みずに「天皇のため」と詭弁を弄して戦争を遂行した戦前の軍部の姿と重なることは、いうまでもありません。
楠木正成は「謀」が得意な才能ある武将でしたが、天皇に抵抗されると判断力を失い、思考停止に陥りました。それを「忠誠心の模範」と礼賛することには、現代に生きる私たちは慎重であったほうがいいと思うのです。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)