ずっと鼻声&急に字が下手になる不気味な症状…67歳妻が身勝手で目が離せない不治の夫を愛し通せたワケ
2025年4月12日(土)10時16分 プレジデント社
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/PEDRE
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【前編のあらすじ】関西地方在住の久保田悦子さん(仮名・67歳)は大学(薬学部)を卒業した後、製薬メーカーに入社。テニスが縁で一級建築士としてゼネコンで働く7歳上の男性と結婚した。それから40年ほど経った2016年以降、60代になった夫はめまいを起こしたり転倒を繰り返したりするように。病院を受診すると、脊柱管狭窄省や尿管結石からの腎盂腎炎と診断され、その後は認知症や脳梗塞などを疑われたが、脳神経外科と内科でMRI検査をしたところ、「進行性核上性麻痺」という希少な難病であることが判明した——。
■母親の号泣
7歳上の夫が「進行性核上性麻痺」という不治の病にかかった関西地方在住の久保田悦子さん(仮名・現在67歳)。医師によってそう診断された2020年2月頃、87歳の母親が一人暮らしをする実家の隣に住んでいる妹(54歳)から電話がかかってきた。
母親が歩行器を使って買い物に出た帰りに転倒して左腕を複雑骨折し、救急車で運ばれたという。
母親は80歳の頃に肺がんと診断されている。そのため、骨折で搬送された先の病院から「肺がんでかかっている総合病院で診てもらってください」と言われ、「お姉ちゃんも一緒に来てほしい」という内容だった。
久保田さんの家から実家までは自転車で30分くらい。母親がかかっている病院は、実家からタクシーで10分くらいの場所にあった。
久保田さんは、妹と一緒に医師の話を聞いた。
「医師の話は非常に冷酷なものでした。『複雑骨折のため、骨がグチャグチャになっている。手術するとしたら、何時間もかかる大手術になるが、(治療中の)肺がんがあるため命の保証ができない。腕をとるか命をとるかの賭けになりますが、それでも手術しますか?』と言われました。最初に肺がんと言われたのが何歳だったのかよく覚えていないのですが、手術も抗がん剤も、一切の治療を母が拒否したことははっきりと覚えています。日頃から母は、『長生きし過ぎた』と口癖のように言っていました」
だから久保田さんと妹は、手術を受けないことを選択した。
「『もう骨はくっつきません。腕は動きません。一生、三角巾で腕を吊って暮らしてもらいます』と言われてそのまま帰りました。母はかなり足が弱っていて、歩行器を使っていたものの、一人暮らししていました。実家の近くのガタガタの狭い路地で転倒して動けなくなっていたところを、郵便配達のおじさんが見つけてくれて、家まで背負って連れてきてくれたそうです」
左腕の骨折の後、母親は起き上がることすらできなくなり、寝たきりになってしまった。
長屋の隣に住む妹が毎日3食運び、オムツを替え、身体を拭いてやるようになった。
母親が寝たきりになる前、久保田さんはほとんど実家に顔を出していなかったが、「とにかくまずは、介護ベッドが入るようにしなければ」と、ゴミ屋敷状態になっている実家を片付けるために、週2回ほど通うように。
実家はもう履かないであろう靴や着ないであろう服など、不要と思われるもので溢れ、足の踏み場もないほどだった。
ある日、久保田さんと妹が実家を片付けていると、隣の部屋から「ウオー! ウオー!」という声が聞こえてきた。母親の声だ。
「お姉ちゃん! お母さんが変!」妹が慌てて隣の部屋に行くと、
「お姉ちゃん、お母さん、泣いてるわ」と妹。
母親は「世話かけてごめん」と言いながら、「ウオー! ウオー!」と大声をあげて泣いていた。
久保田さんは母親を抱きしめながら、
「大丈夫。泣かなくていいから。私らが赤ちゃんのとき、おむつ替えてくれたでしょ。親子なんだから、心配しなくていいから」
と言い聞かせていると、いつの間にか久保田さん自身も泣いていた。
妹は「息ができなくなったかと思って心配したんだから」とブツブツ言いながら、呆然と立ちつくしていた。
久保田さんは夫(当時68歳)の介助もあるため、長時間家を空けることができない。
デイサービスを申し込み、入浴させてあげたいと考えていたが、当時はコロナ禍。新規で受け付けてくれる施設はなし。基本、母親の身体的介護は妹がやっていた。
■10万人に10〜20人の難病
久保田さんは、夫が「進行性核上性麻痺(PSP)」との診断を受けて、帰宅するとすぐにパソコンで情報収集した。すると、以下のようなことがわかった。
・進行性核上性麻痺(PSP)とは
脳の中の大脳基底核、脳幹、小脳といった部位の神経細胞が減少し、転びやすくなったり、下のほうが見にくい、しゃべりにくい、飲み込みにくいといった症状がみられる疾患。病気を発症して間もないころはパーキンソン病とよく似た動作緩慢や歩行障害などがみられて区別がつきにくいが、パーキンソン病治療薬があまり効かず、効いた場合も一時的のことが多く、症状がより早く進む傾向がある。
・10万人に10〜20人程度の難病
1999年は10万人に5.8人程度だったが、最近は10〜20人程度と推測されている。40歳以降に発症し、50歳代から70歳代に多く発症する。この病気になりやすい環境要因や生活習慣などはわかっていない。
・転びやすさと歩行障害
姿勢が不安定になるとともに、危険を察知する力が低下し、注意してもその場になると転倒してしまう。バランスを崩したときに手で防御する反応が起きず、顔面や頭部の怪我が多くなる。足がすくんで前に出にくくなったり(すくみ足)、歩行がだんだん速くなって止まれなくなったり(加速歩行)といった歩行に関する変化もみられる。徐々に動作が緩慢になるとともに手足の関節が固くなり、進行すると寝たきりになる。
・眼球運動障害
上下、特に下向きの随意的眼球運動(意図的にその方向を見ること)障害が出現し、下方をみることが困難になる。進行すると、眼球は正中位で固定して動かなくなる。
・構音障害・嚥下障害
聞き取りにくい話し方(構音障害)、飲み込みにくくなったりむせたりする(嚥下障害)といった症状が徐々に出現。中期以降には誤嚥性肺炎を合併することも。口からの食物摂取が困難になると、経管栄養や胃ろうが必要となる。
・認知機能障害
認知症を合併することもあるが、その程度は比較的軽い傾向。判断力は低下するが、見当識障害や物忘れはあっても目立たない。質問に対してすぐに言葉が出ないこともあるが、病気に対する深刻感が乏しく、多幸的にみえることもある。
写真=iStock.com/mr.suphachai praserdumrongchai
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「いつの頃からか鼻声が続いていて、『この人、ずっと風邪ひいてるのかな』と思ったことがあります。退職してから、字が下手になったなあと思っていました。今から思えば、あれもこれも、全部この病気の症状だったんです。退職して仕事をやめたから、ボケてきたのかと思っていました。もしかしたら、うつ病なのか? とも思いました」
昔、夫は「便秘はしたことがない」と言っていたが、脳神経内科の問診で「便秘は?」と聞かれたとき、「3日に1回くらい」と答えたので久保田さんは驚いた。医師は、「自律神経にも障害が来てるね」と言った。
「いつからか夫は、片付けられなくなっていました。どうしていいのかわからないらしいです。『これは必要ですか?』と一つひとつ確認して『いらない』と答えたら、『じゃあ、ゴミ箱に捨てて』と指示すれば捨ててくれます」
将棋や麻雀が好きな夫は、テレビで番組があると夢中になって見ていたが、全く見なくなった。
「集中力が続かないらしいです。そう言えば、パソコンもいつの間にか開かなくなっていました……」
■在宅介護スタート
医師から難病と告げられてからの夫は、むしろ明るくなった。
「今までできていたことがどんどんできなくなっていく自分に、言い知れぬ不安を感じていたようです。いつもイライラして、何か失敗すると私のせいにして、何に対しても無関心になっていました。それが、病気だとわかった途端、気持ちが楽になったらしいです。『病気なんだから仕方ない』と受け入れることができているようです」
久保田さん自身も楽になった。今まで腹が立ったことも、病気のせいだと思えば腹が立つこともなくなった。
しかし夫の在宅介護が始まると、久保田さんも忙しくなっていった。
当初、夫は自分でトイレに行けたが、入浴や洗身などの介助は必要だった。トイレの後は、朝食介助を行う。蒸しタオルで顔を拭いたり、ひげを剃ったりといった身だしなみを整えることも、サポートが必要だった。
9時になると、月水曜日は訪問リハビリ。火金曜日はデイケアへ送り出す。
木曜日は10時から訪問ST(言語聴覚士:Speech Therapist)リハビリがあり、浴槽またぎが難しくなってからは、月土曜の11時に訪問入浴に来てもらうことになった。
写真=iStock.com/mapo
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デイケアのない日は、12時になると昼食介助を行い、月曜日は13時に訪問歯科がある。
デイケアがある日は15時半に夫を迎え入れ、18時には夕食介助を行い、20時に夜の口腔ケア・皮膚ケアなどをして、22時に夫を就寝させる。
久保田さんはネットで情報収集したり、ブログを書いたりして、12時頃には床についた。
これらの他に、排泄介助は適宜(1日7〜8回)あり、2カ月に1度ほどの頻度で神経内科や整形外科、皮膚科などに通院していた。
「病気の進行に伴い、睡眠障害が出るようになりました。睡眠障害には波があり、朝までグッスリ寝てくれる日もありますが、『眠れない』と言う日は夜中に何度も起き、何度もトイレに行きます」
夫が何度もトイレに行けば、その度に久保田さんも目を覚ます。久保田さんは主治医に相談すると、睡眠薬を処方された。以降、夫が「眠れない」と訴えるときは、睡眠薬を飲ませるようになった。
■夫と実母のダブル介護
2021年8月。夫をデイケアに送り出した後、久保田さんは頼まれていた買い物をしてから、実家に顔を出した。
実家に着くと、まず掃除をする。妹が「家事の中で掃除が一番嫌い」と言うためだ。久保田さん自身も好きなわけではないが、そのほかのことは妹がやってくれているため、仕方なく担当になった。
母親は数カ月前から微熱が続いていた。血中酸素濃度も90%前後で基準より低い。
昨日まで3泊4日のショートステイを利用していたが、「血中酸素濃度が85切ったら、もう受け入れられない」と言われていた。
ショートステイ中、乗っていった車椅子を便漏れで汚したというが、ショートステイ先の特養からケアマネに連絡をとってくれて、福祉用具店が車椅子を交換してくれたそうだ。左腕の骨折から1年半の間に、実家に入れた介護ベッドのマットレスも2回交換してくれている。
久保田さんと妹は、親切なレンタル福祉用具店に感謝した。そして9月20日9時頃。母親が亡くなった。88歳だった。
写真=iStock.com/b-bee
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連絡を受けた久保田さんは、夫の訪問リハビリの真っただ中。
「すぐに行くわ!」と電話を切ろうとしたが、妹が「もう死んでるから慌ててこなくていいよ」と止めた。
終わってから駆けつけると、訪問医が死亡診断書を書いた後だった。
妹によると、「死因は老衰と書きたいところだ」と言われるほど穏やかな死だったが、実際は「肺がん死」と書かれていた。
妹は、「最期まで、やるだけのことはやったから、後悔はない」と泣きながら言った。
「先週くらいからほぼ食べられなくなり、身体を起こすのもつらくなっていたようなので、いつ何があってもおかしくないと思っていました。それでも妹は、母が亡くなるのはまだ先のことだと思っていて、今朝、息をしてない母を見てビックリしたそうです。延命治療は一切なく、最期は枯れるように、自宅で亡くなりました。本人にとっても家族にとっても、理想の亡くなり方だったと思います」
■介護者泣かせの難病
「『進行性核上性麻痺』は、認知症状や精神症状が現れることがありますが、本当に介護者泣かせの症状なんです。とにかく自分勝手になり、人の言うことは聞きません。衝動的、注意力障害、判断力の欠如となるくせに頭は回り、屁理屈は言います。危ないことを止めようとすると怒り出しますし、転倒しても人のせいにします。24時間、目が離せない状態なのですが、現実的に、24時間監視することはできません」
夫は在宅介護が始まって2年目頃に排泄の失敗をするようになった。
しかし夫は自分で始末しようとして被害を広げ、「お願い! 何もしなくていいから、じっとして!」と久保田さんが叫んだところで時すでに遅し。悲惨な状況に陥る。
「よくケンカしました。怒鳴ってしまったこともありました。でもいつからか、全くケンカをしなくなりました。怒るだけ無駄だと思うようになって、お願いはするけど、命令はしません。怒鳴りたくなったら、とりあえず深呼吸しています」
久保田さんが怒らなくなったせいか、夫も穏やかになっていった。
「夫のことは、思い切り甘やかしています。そして、自分のことも甘やかしています。手抜き上等。できないことはできないでいいと思います。最近はあれだけケンカしてたのが嘘みたいに、『仲がいいですね』って言われるようになりました」
「進行性核上性麻痺」は、3年で車椅子、5年で寝たきりと言われている難病だが、夫はまだ寝たきりにはなっていない。
昼間はリビングで過ごし、車椅子で連れて行く介助は必要だが、トイレでの排泄はできている。
「以前は、『ちょっと待って』と言っているのに勝手に何かしようとしては転倒していたので、声を荒らげたことは数回ありましたが、最近は、身体が動かなくなってきているため、転倒リスクも減っています。なんだか複雑ですけどね……。夜中のトイレに起こされることもあまりなくなり、朝まで寝てくれるようになりました」
■「やり切った」と思えれば
診断されたばかりの頃、久保田さんは焦っていたという。
「根本的な治療法がない病気で、リハビリで進行を遅らせるしかないため、とにかくリハビリしないと……って焦っていました。夫はリハビリにも前向きでしたが、どれだけリハビリを頑張ったとしても、進行は止められません。そもそも、老化は誰にも止められません。人はいつかは死ぬ存在です。どうせ死ぬのに、なぜ生まれて来ないといけなかったんだろうと思うこともあります。でも、今まで生きてきて、楽しいこともいっぱいありましたし、今でも、幸せを感じる瞬間はたくさんあります。夫は私に、『長生きしてくれ』と言うので、私には生きる理由がありますが、夫が亡くなったら、私は何を理由に生きていくのでしょう? それは、その時が来たら、また考えるしかないでしょうか……」
「進行性核上性麻痺」は希少な難病であるため、ケアマネジャーであっても詳しくはない。夫の両親や姉はすでに他界しており、子どもに恵まれなかった久保田さんには、身近なところに悩みに共感してくれる相談相手はいなかった。そこで久保田さんは、インターネットで同病の人やその介護者とつながることで、孤独感を軽減。励まし合い、助言し合った。
「夫との『人生会議』は、すでに済ませています。特段、改めて『人生会議』したわけではありませんが、事あるごとに、夫の考えを聞いてきました。日々の会話の中から、本人がどう考えているかを把握しています」
「進行性核上性麻痺」は、中期以降には誤嚥性肺炎をしばしば合併し、口からの食物摂取が困難になると、経管栄養や胃ろうが必要となる。
夫は2022年10月に要介護5。2024年11月に障害支援区分6となった。どちらも最も重い認定だ。車椅子で通院していた夫は、2025年4月からは訪問診療を導入することになった。昨年から、神経内科の主治医に、
「嚥下障害が進んでいる。アルブミン値が低い。胃ろうをするなら早めに」
と勧められている。
その時夫は、「胃ろうはイヤです!」と叫んだ。
「誰だって胃ろうは嫌です。『胃ろうってかっこいい! 早く胃ろうにしたい!』なんて人はいませんよね? 胃ろうにしたくはないけど、生きていく手段として、胃ろうを選ぶことはあります。正しい知識を得て、メリット・デメリットを把握して、その上で選択してほしいです。最終的には、本人の意志を尊重してあげたいと考えています」
久保田さんは、最期まで在宅介護を続け、夫を看取るためにも、1日でも長生きするのが目標だと話す。
「1人になったら、その先のことは、その時に考えます。母の介護を共にしてくれていた妹は昨年4月に脳梗塞を発症し、50代で障害者になりました。難病患者に限らず、人生はいつ何があるかわかりません。『やり切った』と思えれば、また前に進めると思います」
大切な人の介護に後悔は禁物。後悔しないためには、その時々で自分ができること、できないことを真剣に考え、取捨選択して逐一、納得する「納得のプロセス」が重要だ。久保田さんは今日も、「納得のプロセス」を積み重ねている。
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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する〜子どもを「所有物扱い」する母親たち〜』(光文社新書)刊行。
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(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)