皇族も亡命者も"刺した女"もみな乗客だった…鉄道のダイヤグラムで振り返る日本近現代史
2025年4月26日(土)9時15分 プレジデント社
愛新覚羅溥傑と嵯峨浩の長女・慧生。1957年12月に天城山中で心中事件を起こした[出典=『歴史のダイヤグラム〈3号車〉』(朝日新書)]
■敗戦直後に車両に刻まれた「T.K.K.」
東急電鉄のルーツは、一九二三(大正一二)年に目黒—蒲田間を開業させた「目黒蒲田電鉄」にさかのぼる。
創業者の五島慶太は、阪急を創業した小林一三からノウハウを学びながら、社名は倣わなかった。五島が別会社として現在の東横線を開業させたときも、社名は「東京横浜電鉄」だった。同社は一九三九(昭和一四)年に目黒蒲田電鉄と合併したが、社名は東京横浜電鉄のまま変わらなかった。
東急の正式名称となる「東京急行電鉄」が誕生したのは、東京横浜電鉄が現在の京急と小田急を合併した一九四二年になってからだ。小林が周到な戦略のもとに阪急を誕生させたのとは異なり、東急の略称は戦時統合によって生まれたのだ。
敗戦直後の一九四五年九月には連合国軍との連絡を図るべく、英文会社名を定めるとともに英文略称を「T.K.K.」とした。車両の側面には、東京急行電鉄株式会社の「東」と「急」と「株」のイニシャルを意味するこの三文字が大きく掲げられた。
■「とっても、こんで、こまる」と笑った慧生
清朝最後の皇帝にして「満州国」の皇帝だった愛新覚羅(あいしんかくら)溥儀(ふぎ)の弟、溥傑(ふけつ)と結婚したのが嵯峨(さが)浩(ひろ)である。東横線の日吉駅の近くに浩の実家があった。ここに長女の慧生(えいせい)が一九四三年から住んでいた。敗戦後、中国各地を転々としていた浩が四七年に次女と帰国すると、ようやく慧生と一緒に暮らせるようになった。
慧生は日吉から高田馬場まで、東横線と山手線を乗り継ぎ、新宿区にあった学習院女子中等科や高等科に通っていた。毎朝6時ごろに発ったのは、通勤ラッシュを避けるためだったという(『「流転の王妃」の昭和史』)。
慧生が浩に、東横線の車両の側面に刻まれた「T.K.K.」の意味について尋ねたことがあった。
「もちろん、“東”京“急”行“株”式会社の頭文字でしょう」
浩がこう答えると、慧生はクックッと笑い出した。
「ちがうわ、奶々(ナイナイ)、教えてあげましょうか。“と”っても、“こ”んで、“こ”まるの頭文字よ」
「奶々」は父方の祖母を意味する中国語だが、溥傑を含む清朝の皇族は「お母さま」を意味する宮中言葉として用いた。「満州国」が滅んでも、言葉はまだ生きていた。浩はしばらく離れていたのに快活に育つ娘の姿に感動した。
そんな娘が静岡県の天城山中で男子学生と心中したのは、学習院大学に通っていた一九五七年一二月のことだった。
私自身、一九七五年から八一年まで東急東横線に乗り、日吉にある私立の中学と高校に通っていた。「T.K.K.」の三文字が側面に掲げられた車両は、もう見かけなくなっていた。しかし「とっても・こんで・こまる」という朝のラッシュ自体は、一向に変わらなかった。
愛新覚羅溥傑と嵯峨浩の長女・慧生。1957年12月に天城山中で心中事件を起こした[出典=『歴史のダイヤグラム〈3号車〉』(朝日新書)]
■ソ連に亡命した岡田嘉子と演出家の恋
四方を海に囲まれた現在の日本に、地続きの国境はない。しかし植民地をもっていた戦前の日本は、そうではなかった。日露戦争後に植民地となった南樺太は、北緯五〇度線を境に、ソ連領の北樺太と接していた。
この国境を走って越え、ソ連に亡命した俳優とその恋人の演出家がいた。岡田嘉子と杉本良吉だ。
岡田の自叙伝『ルパシカを着て生まれてきた私』と当時の時刻表をもとに、二人がどういうルートをたどったのかを探ってみる。
一九三七(昭和一二)年一二月二七日、二人は上野を午後7時に出る常磐線経由青森ゆきの夜行急行列車に乗った。アイヌ民族の研究のため北海道と樺太に行くというのが、表向きの理由だった。
青森には翌二八日朝の7時45分に着いた。8時20分発の青函連絡船に乗り、函館着は午後0時50分。1時20分発の稚内港(現・稚内)ゆき夜行急行が接続していた。
この列車は函館本線を経由し、旭川に午後10時38分に着いた。二人は降りて旭川で一泊した。翌二九日は岡田自身が「実際にアイヌの集落を見に行ったんですよ」と回想する通り、アイヌ民族の集落として知られていた「近文(ちかぶみ)コタン」を訪れたのだろう。
そして前日と同じ列車に旭川から乗り、終点の稚内港に翌三〇日朝の6時48分に着いた。
■「国境を越えたぞ!」と叫んだ亡命が成功した瞬間
北海道と南樺太の間に時差はなかった。稚内を8時50分に出た連絡船は、大泊(おおどまり)(現・コルサコフ)に午後4時50分に着いた。二人は大泊港から樺太庁鉄道東海岸線の列車に乗り、南樺太の中心駅、豊原(現・ユジノサハリンスク)で降りて一泊した。
当時、南樺太で最北端の駅は、前年に開業した敷香(しくか)(現・ポロナイスク)だった。翌三一日朝、二人は豊原から再び東海岸線の列車に乗った。樺太鉄道の敷香に着くころには日がすっかり暮れていた。
一九三八年の元旦を、二人は敷香駅前の旅館で迎えた。アイヌ民族の集落を見てから、岡田は「せっかくここまで来たのですから、国境を見たいんですけど」と言った。
二人を乗せた警察の馬ソリが北緯五〇度線を目指した。ソリが止まるや、二人は走り出した。「どのくらい雪をかき分けて進んだときか、杉本が『国境を越えたぞ!』って叫んだんです」。亡命が成功した瞬間だった。
有名俳優の失踪は大きなニュースになった。一九三八年一月五日付の「東京朝日新聞」には「岡田嘉子謎の行方 杉本良吉氏と同行 樺太で消える 奇怪・遭難か情死か」という見出しが掲げられた。
その後、二人はどうなったか。杉本はスパイ容疑で射殺された。岡田がソ連から帰国したのは、一九七二年になってからだった。
ソ連から帰国し、記者会見する岡田嘉子=1972年[出典=『歴史のダイヤグラム〈3号車〉』(朝日新書)]
■神近市子は弘前へ「追放命令」
一九二五(大正一四)年に山手線の上野—神田間がつながり、同線の環状運転が始まるまで、上野駅は欧州のターミナルのように全体が行き止まり式の構造になっていた。
一九一三年四月初旬のことだった。上野を午前6時に出る奥羽本線回り青森ゆきの703列車に、神近(かみちか)市子(いちこ)が乗った。神近は後に無政府主義者の大杉栄を刺したことで有名になるが、当時は女子英学塾(現・津田塾大学)を卒業したばかりだった。
ホームには卒業生たちに交じり、女性解放を目指す「青鞜社」を設立した平塚らいてうの姿もあった。
「派手な見送り風景に、プラットホームの人たちは驚きの目で私たちを眺めていた」(『神近市子自伝』)
女子英学塾に通いながら青鞜社に属した神近は、塾長の津田梅子に呼び出され、「あのグループは婦人の道徳を乱し、社会の秩序を乱します。はいっているのが真実なら、当分東京を離れてもらいます」と告げられた。そして卒業と引き換えに青鞜社から退き、青森県立弘前高等女学校(現・弘前中央高校)の英語教師として赴任するよう命じられた。この「追放命令」に従わざるを得なかったのだ。
■「これが北国なのだ」と思った九州育ち
ボックス席の向かい側に男性が座っていた。派手に見送られたせいか、どこへ何をしに行くのか尋ねられた。県立弘前高等女学校に赴任すると言うと、男性は感嘆し、隣に座っている頰の紅(あか)い少女を指して「家出した娘を連れ戻してきた」と言った。
原武史『歴史のダイヤグラム〈3号車〉 「あのとき」へのタイムトラベル』(朝日新書)
神近自身、長崎の活水(かっすい)女学校(現・活水高校)を中退し、ひそかに列車で上京してきた。「おそらく彼女は、因習の強い東北の生活を脱出して、新しい文化の花咲く都会に憧れたのだろう」(同)。神近は少女の姿に、自らの過去を重ね合わせた。
九州で生まれ育った神近は、東北地方を訪れたことがなかった。上野を出て一時間も経つと、窓外の景色は「はじめての色あい」を見せるようになった。列車は福島で東北本線から奥羽本線に入ったが、山形に着くころにはもう日が暮れていた。
列車は奥羽本線を夜通し走り、弘前に「午前六時ごろ」に着いた。駅前の風景は上野とは全く違っていた。
「東京では花見の季節だというのに、駅の片側にも、道路の脇にも、かき集めた雪が山のように積み上げられ、常緑樹のほかは針の先ほどの芽がついているだけだった。これが北国なのだと私は思った」(同)
当時の弘前はいまよりずっと寒く、春の訪れも遅かった。県立弘前高等女学校に着任した神近は、ここでも青鞜社に属していたことが発覚し、校長に呼び出された。神近が弘前にいたのは、半年に満たなかった。
戦後は国会議員にもなった神近市子=1960年[出典=『歴史のダイヤグラム〈3号車〉』(朝日新書)]
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原 武史(はら・たけし)
政治学者
1962年生まれ。放送大学教授、明治学院大学名誉教授。早稻田大学政治経済学部卒業、東京大学大学院博士課程中退。専攻は日本政治思想史。98年『「民都」大阪対「帝都」東京──思想としての関西私鉄』(講談社選書メチエ)でサントリー学芸賞、2001年『大正天皇』(朝日選書)で毎日出版文化賞、08年『滝山コミューン一九七四』(講談社)で講談社ノンフィクション賞、『昭和天皇』(岩波新書)で司馬遼太郎賞を受賞。他の著書に『皇后考』(講談社学術文庫)、『平成の終焉』(岩波新書)などがある。
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(政治学者 原 武史)