NHK大河で福原遥が演じる吉原の花魁の悲劇…「たがそで」を1億円で身請けした男が理不尽にも処刑されたワケ

2025年4月27日(日)8時15分 プレジデント社

2022年9月2日、NHKの連続テレビ小説「舞いあがれ!」で主演を務める福原遥が始球式に登場=甲子園 - 写真=共同通信社

蔦屋重三郎が活躍した時代、吉原の遊女・誰袖(たがそで)が約1億円で武士に落籍され、世間の注目を集めた。作家の濱田浩一郎さんは「身請けしたのは勘定組頭だった旗本。蝦夷地開発計画にも関わったキレ者だったが、彼の運命は暗転する」という——。

福原遥演じる若い遊女「誰袖」は最高位の花魁


大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)で主人公の蔦屋重三郎(演・横浜流星)を慕う「当代一の花魁」として登場してくるのが、福原遥さん演じる誰袖(たがそで)です。


写真=共同通信社
2022年9月2日、NHKの連続テレビ小説「舞いあがれ!」で主演を務める福原遥が始球式に登場=甲子園 - 写真=共同通信社

ドラマにおいて誰袖は大文字屋の遊女であって、かつては「かをり」と名乗っていました。


誰袖の名は『吉原細見』などにも残り、吉原の名物男である大文字屋市兵衛(伊藤淳史)の妓楼で、最高位「呼び出しの花魁」になったことが確認できます。その美しい姿は山東京伝こと画家名・北尾政演(古川雄大)も浮世絵に描きました。


しかし、誰袖が蔦重を慕っていたというのはフィクションでしょう。


この誰袖を身請けしたとして有名なのが土山宗次郎孝之(栁俊太郎)です。


その身請け金がこれまた「べらぼう」で1200両(米価で換算し現在の価値で6000万円〜1億円ほど)とも言われています。鳥山検校(市原隼人)に落籍された遊女・瀬川(小芝風花)の1500両という金額にも匹敵します。


北尾政演(山東京伝)画『吉原傾城新美人合自筆鏡』に描かれた大文字屋の遊女・誰袖(たがそで)、中央(出典=国立博物館所蔵品統合検索システム

■約1億円で誰袖を落籍した男、旗本の土山宗次郎とは?


宗次郎は藤右衛門孝祖(勘定組頭)を父として生まれました。宗次郎には妻もおり、それは日下部七十郎の娘です。宗次郎が父と同じ勘定組頭にまで出世したのが、安永5年(1776)11月のことでありました。


宗次郎は牛込御細工町に豪華な邸宅を構えています。それは「酔月楼」と称されました。豪華な邸宅において、宗次郎は文化人らと交友していきます。例えば大田南畝(号・蜀山人、演・桐谷健太)。狂歌や黄表紙の作者であり、蔦屋重三郎とも懇意にしていました。それから、南畝とも仲が良かった狂歌師・戯作者の平秩東作(内藤新宿の煙草屋、演・木村了)も宗次郎と交友がありました。東作は平賀源内(安田顕)とも親しくしており、「狂歌界の長老格」とも評されますが、その生活は貧しかったとされます。


宗次郎や南畝・東作はよく一緒に遊んでいるのですが、南畝の日記『三春行楽記』(『大田南畝全集 第8巻』岩波書店、1986年)には、正月3日、宗次郎邸で「男女交錯、相酌無算(男女が酔って乱交し、酒をどんどん飲ませ合った)」と乱痴気騒ぎの酒宴を催していることが記されているのです。


その2日後、南畝は宗次郎とその愛人「流霞夫人」と傀儡(くぐつ)(人形遣いの見世物)を見物したり「中戸楼」で遊んでいます(流霞夫人は日下部七十郎の娘とは別人と考えられています)。ちなみに『三春行楽記』には遊女「誰袖」や「書肆耕書堂(しょしこうしょどう)」(蔦屋重三郎が営む本屋)も登場するのです。


■作家・大田南畝の日記には誰袖と宗次郎と蔦重の名前が


それは同日記の2月9日の項目。この日も南畝は狂歌師の朱楽菅江や宗次郎らと共に「北里」に遊んでいますが、花を観た後に大文字屋の妓楼に登っています。大文字屋で宗次郎らは遊女を呼ぶのですが、その1人が「誰袖」でした。同日記には誰袖を「土山氏の狎妓(こうぎ)」とあります。誰袖は宗次郎の馴染みの女・可愛がっている芸妓という意味です。


鳥文斎栄之画「太田南畝肖像画」、江戸時代後期。渥美国泰『太田南畝・蜀山人のすべて』(里文出版)より(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

菅江や南畝もそれぞれ遊女を呼び楽しんだとのこと。大文字屋で遊んだ後に南畝と菅江が訪れたのが「書肆耕書堂」でした。「書肆耕書堂に宴す」とありますから、重三郎らと酒盛りをしたのでしょう。宴会後、耕書堂が呼んだ「肩輿」(駕籠)で南畝は家に帰りました。南畝が重三郎とどのような会話をしたのかまでは書かれていませんが、もしかしたら誰袖の話も出たかもしれません。


北尾政演(山東京伝)画『吉原傾城新美人合自筆鏡』には版元として蔦屋重三郎の名が載る(出典=国立博物館所蔵品統合検索システム

■宗次郎は蝦夷地に詳しく、上役の伊豆守に上申書を書く


さてこれまで書いてきたことだけ見たら、宗次郎は飲んで遊んでばかりの人間のように思われますが、そうではなく、彼は幕閣切っての蝦夷地(えぞち)(現在の北海道)通でもありました。そして彼の上役は勘定奉行の松本伊豆守秀持。秀持は当初、百俵五人扶持の御家人でしたが、財政に明るく、勘定組頭・勘定吟味役そしてついには勘定奉行にまで昇進した人物です。老中・田沼意次(渡辺謙)の腹心でもありました。


秀持は工藤平助(1734〜1801年。仙台藩医・経世家)の著作『赤蝦夷風説考』(ロシア貿易の開始と蝦夷地開拓を説いた書物)を添えた意見書を意次に提出することになります。平助は蝦夷地を幕府の手で調査すること、金銀を採掘しそれを交易に当てること、ロシアと蝦夷地で交易することを説きます。それは当時、鎖国していた日本で、ゆるやかな開国を提言するものでした。


当時、ロシアは千島の島々を占拠して極東に触手を伸ばしていましたが、徳川幕府の対応は後手に回っていました(また諸国の商人が蝦夷地に赴き、国禁の抜荷=密貿易も横行している有様でした)。秀持は蝦夷地通と言われる宗次郎にも蝦夷地についての知見の提供を求めています。これに対し宗次郎が提出したのが全17カ条にもわたる上申書でした。


■なぜ宗次郎は蝦夷地の交易状況に詳しかったのか?


そこには松前城下町の状況、蝦夷地との交易品について(米・酒・木綿針・煙草など)、蝦夷地の産物(鮭・鯨・金・銀・銅・鉄・硫黄ほか)、松前藩の年間の運上(雑税)収入(約1万両)、松前藩が本土から入ってくる者(特に儒者・僧侶・山伏・医師など読み書きができる者)を厳しく制限していることなどが記されていました。


この上申書を秀持が受け取ったのは天明4年(1784)4月のことです。天明4年というと、天明の大飢饉の最中であり、意次の子・田沼意知(宮沢氷魚)が江戸城内で刺され死去した年でありました。さて宗次郎は蝦夷地に行ったことはありませんでしたが、なぜこれほど蝦夷について詳しかったのでしょう。


その情報源となったのが、前に紹介した戯作者の平秩東作と言われています。東作は松前藩の江戸屋敷にも出入りしていましたし、蝦夷地にも出かけていました(1783年)。宗次郎は東作の蝦夷地行きに際して、松前の絵図を貸しています(この絵図は元松前藩の勘定奉行・湊源左衛門が所持していたものとの見解もあります)。


蝦夷地に約半年滞在した東作は、見聞録『東遊記』をまとめることになるのです。東作の現地調査と湊源左衛門の情報を基にして、宗次郎は上申書をまとめたのでした。


伊能忠敬原図『日本図』の蝦夷地、1827年(文政10)ごろ。[国立国会図書館デジタルコレクション

■鎖国中の日本にロシアの脅威が迫り、幕府は調査団を派遣


宗次郎の上申書と工藤平助『赤蝦夷風説考』は意次に衝撃を与えたと思われます。蝦夷地がロシアの脅威に晒され、しかもそこでは密貿易が蔓延っている。それと共にそこには豊富な鉱物資源が眠っているかもしれない。蝦夷地を開拓していけば国は富み、窮民を救えることにつながるであろうが、そのためには蝦夷地の実態をできるだけ正確に把握しなければならない。上申書を見た意次の脳裡に以上のようなさまざまなことが去来したはずです。


工藤平助が中田沼意次に献上したロシア情報『赤蝦夷風説考』、1783年。国立公文書館デジタルアーカイブ(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

そうして蝦夷地調査団の派遣(調査団の主な目的は金銀鉱山とロシア貿易の調査)が構想され、実行に移されることになります。隊員は公儀普請役の山口鉄五郎・庵原弥六・佐藤玄六郎・皆川沖右衛門・青島俊蔵らでした。調査団は天明5年(1785)2月、松前に出発、4月下旬には松前を出立し、二手(国後島に行く団員と樺太に行く団員)に分かれて調査が始められます。調査報告書は天明6年(1786)に提出されますが、その柱となっていたのは蝦夷地の「農耕地化」(新田開発)でした。


■田沼意次の失脚とともに、蝦夷地開発の夢は消えた


田沼政治が続いていたら、蝦夷地の開発が実行されていったでしょうが、天明6年(1786)8月、意次は老中職を罷免されます。それと共に、勘定奉行・松本秀持も罷免されるのです。蝦夷地調査は完結しないまま打ち切られてしまいます。


最も悲惨な運命をたどることになったのが、土山宗次郎です。勘定組頭だった宗次郎は先ず富士見御宝蔵番頭に移されます(1786年)。そして、なんと翌年(1787年)12月5日には斬首されてしまうのです。


宗次郎の罪状は複数あり、例えば病死した娘のことを幕府に届けないで他家の娘を養女としたこと、勤務中の不正(幕府お買上米に関連する500両横領)などが挙げられていますが、遊女の誰袖を身請けしたことも「身持放埒」とされ非難されています。


■「遊女を身請けしたこともけしからん」と処刑された


作家の鈴木由紀子はこうした罪状は「あくまで表向きの理由だろう。真の罪状は蝦夷地見分を主導した張本人と見られたためではなかったか」と推測しています(同氏『開国前夜』新潮社、2010年)。


筆者は、宗次郎の死罪は、意次に代わって政権を担った松平定信(派)による田沼派への陰湿な処罰の頂点だと感じています。


さて宗次郎は鈴ヶ森(品川区)で処刑されるはずでした。よって役人も早朝から鈴ヶ森に赴き、群衆も見物に来ておりました。しかし時が過ぎ、晩遅くなってしまったので、鈴ヶ森ではなく、牢屋(日本橋伝馬町)で死刑にせよとの命令が出ます。


しかし、これは実は時間の問題ではなく「大罪」を犯したとは言え、御目見以上の者を群衆の面前で死刑にし、その死骸をさらすのもいかがなものかとの判断が働いたためとも言われています。いずれにせよ、大金で遊女・誰袖を身請けし、蝦夷地に情熱を注いだ宗次郎の哀れな最期でありました。


※主要参考文献
・井上隆明「天明末期の黄表紙異変——土山宗次郎事件をめぐって」(『秋田経済大学・秋田短期大学論叢21』1978年)
・工藤平助 著 井上隆明訳『赤蝦夷風説考 北海道開拓秘史』(教育社、1979)
・『海外視点・日本の歴史11』(ぎょうせい、1987)


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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師・大阪観光大学観光学研究所客員研究員を経て、現在は武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。
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(作家 濱田 浩一郎)

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