小柄で武術が不得意だった豊臣秀吉はなぜ戦国を勝ち抜けられたのか?乱世のリーダーが「戦術」を鍛えるべき理由
2024年7月1日(月)5時50分 JBpress
不確実性が高い“乱世”の時代、企業を率いるリーダーが歴史の考察を通じて得られる学びは大きい。歴史上のリーダーたちはいかにして不利な状況を克服し、勝利を収めてきたのか。そして私たちは、その歴史から何を学ぶべきなのか──。歴史家・作家の加来耕三氏によると、乱世の時代には「戦略」よりも「戦術」が重要になるという。2024年2月に書籍『リーダーは「戦略」よりも「戦術」を鍛えなさい』を出版した同氏に、令和のリーダーが戦術を学ぶことの意義、戦術を用いて勝率を高めるためのポイントについて聞いた。
「戦術」への理解なくして「戦略」は語れない
——著書『リーダーは「戦略」よりも「戦術」を鍛えなさい』で、日本のリーダーは「戦略」と比べて「戦術」を軽視する傾向があるとして警鐘を鳴らしています。日本人は戦略と戦術をどのように捉えるべきなのでしょうか。
加来耕三氏(以下敬称略) どんな世界でもそうですが、小さな「戦術」での勝利の積み重ねの実戦経験があって初めて、大きな「戦略」を描くことができます。ですから、戦術の重要性を理解することなしに戦略を語ることはできません。
ところが、日本の企業や組織でリーダーの立場にある人たちと話していると、戦略は重視するものの戦術を軽視する傾向を感じます。全体を構想する戦略を練ることがリーダーの仕事であり、そのための手段・方法である戦術を実行することは部下の仕事だと思われているようです。
しかしながら、歴史を振り返ってみると、いかに戦術が重要であるかが分かります。大きな仕事を成し遂げ、歴史上に名を残した人たちの足跡を見ていると、誰もが小さな戦術による勝利の積み重ねを通して、徐々に大きな仕事を任されるようになっています。そして、それが後世に残る歴史的偉業につながっているのです。
不利な局面を一つ一つ戦術によって打開した先に、大きな目標である戦略が結実します。特に「乱世」と呼ばれる、生きるか死ぬかの瀬戸際にあるような時代においては、目の前の戦いを制し、生き抜くための戦術が重要になります。小を積み重ねなければ、大には至らないのです。
この本では、歴史を動かしてきたリーダーたちが積み重ねてきたさまざまな戦術を振り返りながら、戦術の重要性、戦術を成功させるための大切なポイント、そして、状況が刻一刻と変わる激動の時代こそ、戦略以上に戦術の積み重ねが重要であることを述べています。
小柄な豊臣秀吉が「乱世を生き抜いた戦術」
——著書では、戦術の成功確率を高めるポイントをいくつか紹介しています。その中でも、最も重要なことは何でしょうか。
加来 戦術の成功確率を高めようと思ったとき、基本になるのは「自分の土俵で勝負する」ということです。言い方を変えれば、自分の成功のパターンを持ち、自分が得意とする戦い方で勝負することが重要です。
戦国時代の武将は、根気よく城を囲んで敵を降伏させる「城攻め」(兵糧攻め)が得意な者もいれば、本人が槍を振るって敵の首をあげる「野戦」が得意な者もいました。例えば、豊臣秀吉(1537-1598)は、「城攻め」を得意としていました。
秀吉は小柄で武術が不得意でしたから、戦場に出て戦うことは自ら死にに行くようなものです。では、どうすれば生き残ることができるでしょうか。そのためには、自分がそうした局面に遭わないような戦い方をすればいいわけです。
そこで有効なのが、勝負の土俵を「野戦」から「城」に移すことです。相手を城中に押し込め、兵糧を断ったり、水攻めをしたりして、根気よく城を囲んで相手の気力を消失させながら降参を促すという戦い方です。
秀吉は「城攻め」を自らの得意戦術として完成させ、備中高松城や小田原城などの難攻不落といわれた城を次々と降参させていきました。苦手を克服することよりも、自らが確実に勝てる土俵に相手をおびき寄せることが、勝率を上げる第一の近道なのです。
ここで重要なことは、戦い方には「こうでなければならない」というものはない、ということです。「こうであるべき」「こうでなければいけない」と考えた瞬間、その時点で戦術的には「負け」です。戦い方はさまざまなのですから、自分の得意な戦術や成功パターンを持ち、相手を自分の土俵に引き込むことが、勝負に勝つ確率を高めるための第一歩だといえます。
乱世のリーダーに求められる「戦術の説明能力」
——部下を動かす「チーム戦術」として、織田信長の事例を紹介されています。冷酷で無慈悲な暴君というイメージがある信長が、一見無謀とも思える合戦に多くの部下を参加させることのできた背景には、どのような戦術があったのでしょうか。
加来 たしかに、織田信長(1534-1582)は無口で冷酷なイメージがあります。例えば、部下からいろいろな報告を受けても、いつも「(そう)で、あるか」という短い一言で済ませていたエピソードは有名です。
しかし、多くの部下たちは、信長を主君として支持しました。それのひけつは、チーム内のコミュニケーションにあります。信長は、大きな方向性を示すだけでなく、「なぜ、それが必要か」ということを、部下が納得できるまで丁寧に説明することを怠らなかったのです。そのため、一見無謀とも思える合戦にも、部下たちは納得して信長に付いていったのです。
象徴的な例が、1571年に織田軍が近江国(現・滋賀県)にある比叡山延暦寺を焼き打ちにした際のことです。信長は僧侶や学僧のみならず、女性や子供まで皆殺しにしました。当時、他の多くの武将が仏罰を恐れ、僧兵を従える寺院勢力に手を出すことを恐れる中、信長は部下に比叡山延暦寺焼き打ちを命令し、部下はそれを実行したのです。
中世の人たちにとって「神仏に対する恐れ」は、現代の我々にとっては想像もできないほど大きなものだったでしょう。しかし、そうした時代にあって部下たちは、なぜ信長に従ったのでしょうか。
信長は、それ以前に「天下布武」(朝廷の下に泰平の世を開く)という言葉で、自分たちが向かう方向性や目的を示していました。その上で「それを邪魔しているのが延暦寺だ。彼らは経文すら読まず、酒を飲み女性たちを平気で出入りさせ、破戒の限りを尽くしている。あれが仏教か。ああいう連中がいるから乱世になったのだ。仏罰を受けるのは、むしろ彼らの方だ。だから、私は攻めるのだ」と、部下たちに征伐の理由を丁寧に説明しました。
信長は、決してうそを言って部下たちを丸め込んだわけではありません。部下たちも、仏罰よりも信長が恐ろしかったから付いていったわけではありません。彼らは信長の方向性に共感し、説明に納得したからこそ付いていったのです。いつの時代においても「説明責任を果たす」ということは、チームを率いるリーダーにとって非常に重要な戦術であると言えるでしょう。
戦術の内容自体も重要ですが、それ以上に、なぜその戦術をとるのか、その戦術をとればその先どうなるのか、納得できる「説明」が重要になります。そのことで、部下は納得し、安心して付いていくことができます。戦国の世であればあるほど、この「説明する時間と能力」が重要になってくるのです。
歴史が一番伝えたいことは「油断するな」ということ
——歴史を振り返ることを通して、私たちは多くのことを学ぶことができます。歴史は私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。
加来 「歴史」は私たちに多くのことを教えてくれます。私は、歴史が私たちに最も伝えたいことは、「油断するな」ということだと思います。
「近代日本の40年周期アップダウン説」をご存じでしょうか。明治維新以降の近代日本は、40年ごとに危機(底辺)と好機(頂点)を繰り返している、というものです。
1865年(慶応元年)、日本人の海外出国が朝廷から認められました。欧米列強に伍する国をつくるために、富国強兵の掛け声の下、日本が底辺の状態から「坂を上がり始めた」のがこの年です。そして、そこから40年後の1905年、日本は日露戦争に勝利します。日本人は「一流国への仲間入りができた」と舞い上がり、有頂天になりました。
その後、無謀ともいえるアジア覇権を唱えて大陸に進出し、太平洋戦争に突入します。そして40年後の1945年に、全てを失う敗戦の年となり、底辺を迎えます。そして、そこから再度這い上がり、高度成長期を経た40年後の1985年に「プラザ合意」で再び頂点に至ります。この時期は、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれた時代であり、そこから日本はバブル景気の絶頂期を迎えました。その後にバブルが崩壊し、日本は一気に衰退していきます。その40年後が2025年というわけです。
いま振り返ると、日本人は「日露戦争の勝利」や「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれた時期に有頂天になり過ぎ、「油断」してしまったのではないかと思います。本来であれば、その時に一度立ち止まって「日本はどうすべきか」「日本人はこれからどう生きていくべきか」をもっと深く考えるべきでした。
戦国時代、戦いの中で武田信玄(1521-1573)は「五分は励みを生じ、七分は怠りを生じ、十分はおごりを生じる」と言いました。つまり、五分(ほどほど)の勝ちであれば、組織はさらに上を目指そうと励む。しかし、七分の勝ちは、心の緩みや怠慢を生む。さらに、十分の勝ちは心が驕り高ぶり、組織が崩壊する恐れさえ出てくる、ということです。
いま日本は危機の時代を迎えています。もしかしたら、明日がどうなるか分からない、生きるか死ぬかの乱世の時代に突入するのかもしれません。ですから、いまこそ、日本人は危機意識を高め、今一度、乱世の歴史を生き抜いてきた武将たちの戦術から深く学ぶべき時なのではないかと思います。
筆者:三上 佳大