暴走族の集会に行ってエキストラを勧誘! 高校出たての緒方明監督が駆り出された『狂い咲きサンダーロード』の壮絶な現場

2025年4月25日(金)7時20分 文春オンライン

 いま日本映画界を第一線で支える映画監督たちには、8ミリ映画を自主制作し、才能を見出され、商業映画にデビューした者たちが少なくない。そんな監督たちに自主映画時代を振り返ってもらう好評インタビュー・シリーズの第11弾は、緒方明監督。九州の映画青年が突然放り込まれた石井聰亙組の壮絶な現場のエピソードからインタビューは始まった。(全4回の1回目/ 2回目 に続く) 


◆◆◆


 1980年のPFF(ぴあフィルムフェスティバル)で『東京白菜関K者』を見た時の衝撃は忘れられない。朝起きたら白菜になっていた、という不条理な話をパワフルに描くこの作品の監督は石井聰亙監督一派だと知って納得した記憶がある。その緒方明監督の商業映画デビュー作品『独立少年合唱団』は打って変わって静謐な青春映画だった。緒方監督が体験した石井組のこと、『東京白菜関K者』の裏話、フリーの助監督やCM、テレビのディレクターを経て40歳で映画監督デビューするまでの話をいろいろお聞きした。



緒方明監督 ©藍河兼一



おがた・あきら 1959年佐賀県生まれ。福岡大学在学中に石井岳龍(聰亙)監督と出会い、助監督を務める。80年『東京白菜関K者』でPFF入選。高橋伴明、大森一樹の助監督を経て、2000年『独立少年合唱団』で劇場映画デビューし、ベルリン国際映画祭新人監督賞ほか数多くの賞を受賞。05年『いつか読書する日』でモントリオール映画祭審査員特別賞。その他主な映画作品に『饗宴〜重松清「愛妻日記」より』『その山を崩せ』(06年)、『のんちゃんのり弁』(09年)、『友だちと歩こう』(14年)など。最新作は故・大森一樹監督の企画を受け継いだ『幕末ヒポクラテスたち』(26年公開予定)。



スターだった大森一樹監督との出会い


——どうして8ミリ映画を撮ろうと思ったんですか?


緒方明(以下緒方) 高校3年の夏休みに、僕は『クイズグランプリ』(フジテレビ系)の全国高校生大会に出場することになりまして。3人1組で佐賀県代表として当時河田町にあったフジテレビに行くわけですよ。交通費と宿泊費をもらって。初めての東京ですから、興奮して3人で前乗りしているわけですよね。他の2人は東京タワーや浅草に行ったりするんですけれど、僕は映画を観たくてしょうがなかったんです。


 佐賀では見れない映画がいっぱいあって。前もって佐賀まで『ぴあ』を取り寄せたんです。ビックリしたのが、自主上映のページが存在したこと。その中に、ぴあ主催のビデオ上映会があった。それが『暗くなるまで待てない!』(注1)の上映会で、そこに大森さんがいらっしゃったんです。観客は7〜8人しかいなくて、その頃僕にとっては大森一樹はスターでしたから、興奮しちゃって。ぴあで出版した『MAKINGOFオレンジロード急行』という本を売るためのイベントだったんですけど。当然それも買って、サインをもらって、「僕も映画撮りたいんです」と佐賀の田舎者の少年がほっぺたを真っ赤にして、大森さんは「おお、頑張りや」とか言って。


——その上映会の前に大森さんの作品は見ていたんですか?


緒方 『オレンジロード急行』はその年、1978年の4月29日公開なんですよ。だから、その時既に大森一樹はスターでした。あの年、4月に松竹は『オレンジロード急行』、夏に日活で石井聰亙監督の『高校大パニック』という2本がトントンと来ているわけですよね。共に興行的にも批評的にも失敗するんですけれども、とはいうものの、やっぱりものすごいことが起きているなと。


 松竹映画で『オレンジロード急行』の予告編では山根成之監督がレポーターみたいに出てきて、「今、日本映画でとんでもないことが起きています」と言って、次に大森さんの顔のアップになって「よーい、スタート」と言って、それがかっこよくてね。だから、監督がスターになっているわけですよね。それはちょっと驚きました。石井さんは共同監督ではありましたけれども弱冠21歳ぐらいで日活の中で「暴力こそがわれわれの表現手段だ」みたいなことを言いながら映画を撮っているのがかっこよかったですよね。単純にそれに対する憧れですよね。


——それで自分でも撮ろうと?


緒方 そうそう。あれが人生を変えたんですよね。夏休みに東京に行って、帰ってきた時にはもう映画を撮る気満々になってますから。


第一作は青春映画で、現場も青春だった


緒方 高3ですから受験勉強しないといけないんですけど、受験勉強をしていたら映画が撮れなくなると思ったので、先生に言って推薦入学にしてもらって。一応佐賀の進学校でしたから、推薦だと無試験で行ける大学があって、「そこに行きます」と。推薦を決めると2学期から3月まで暇になるんですよ。だから、その間にバイトしてお金をためて、2月3月で8ミリ映画を撮りました。その8ミリ映画の顛末は、まんま『Single8』(注2)でしたね。


——そうですか(笑)。


緒方 うちの高校は、女子がすごい少ないんですよね。一学年450人いて、女子は50人ぐらいしかいないんですよ。だから、あんまり女性の友達はいないけど青春映画でヒロインは出てくるんです。今考えたらほんとバカなんですけど、仲間うちで勝手にオーディションをやるわけですよ。


——呼んで?


緒方 呼ばない、呼べない。知らないから。その50人ぐらいの女子の名前を全部書いて、甲子園みたいにトーナメント。A子さんとB子さん、「これどう思う?」「それはA子だろ」「いや、B子のほうがよくない?」って。バカですよね。そうやってやっていって、一番最後に残った女子が「主演女優だ」って。でも誰がどう口説くのよとなって、「それは緒方、お前が監督なんだから、お前が口説くに決まってる」「え〜。俺、話したことないよ」「監督ってそういうものだろ」ということで、放課後に女子クラスに行って、その女の子…A子さんと言いましょう。「A子さんいますか?」と言ったら、「A子さん、なんか男の人が来てるよ」って、「こんにちは。僕、緒方と言います」「はぁ」「映画に出てもらいたいんですけれども。あなたが1位になりましたので、映画に出て」って。もうコントみたいなやりとりですね。彼女が「なんで私なの?」とか聞くわけですよ。その時、いまだに覚えているんですけど、「だってあなた、きれいじゃないですか」って俺は言ってるんです。自分でも驚きました。映画ってこういうことが言えるんだ、と思った。それで、何がすごいって、その女の子が「うん、分かった。出る」ってその場で言うんですよね。


——素晴らしい。


緒方 すごいですよね。その翌日か翌々日に、「取りあえずカメラテストをやるのでお堀端の公園に来てくれる?」とか言って、パネルにアルミ箔を貼ってレフ板を作ったり男2〜5人で準備をやって。で、「本当に来るんやろうか」と言っていた時に、「あっ、本当に来た」って、向こうからずーっとその女の子が自転車でやってくる、その景色は今でも覚えてるな。


——青春映画ですね(笑)。 


緒方 あの本当に短い期間だけ『Single8』なんですよ。美しい青春が宿ってました。そんなものは高校卒業してダイナマイトプロに入ると見事に打ち砕かれるんですけれども(笑)。 


石井聰亙監督と出会い、上京


緒方 4月に大学に入って博多の街歩いてたら、「石井聰亙凱旋8ミリ上映会」のチラシが電柱に貼ってあって、すぐ主催の自主上映団体に電話して「上映会を手伝いたいんですけど」と言ったら、「じゃあ一緒にやりましょう」となって。「石井が今帰ってきてますから」うわ、石井聰亙いるんだ、と思って。


 ちょうど石井さんは免許を取りに帰ってきていたんです。9月に『狂い咲きサンダーロード』を撮るので、自分で運転するつもりだったんでしょうね。実際運転もしてましたけど。その8ミリの上映会で石井さんからいろいろ考え方を教わりました。全部自分でやるんだと。「自主映画というのは、チケット1枚売ったら500円か600円で、ラーメン1杯食えるだろ。そういうことなんだよ、緒方」みたいなことを、最初は優しく教えてくれました。だんだん厳しくなっていくんですけど。


——石井さんは既に日活で『高校大パニック』を撮った後ですよね。


緒方 そうそう。日活では、ご本人も言ってらっしゃると思うけど、忸怩たる思いというかね。共同監督で何もやらせてもらえなかったという思いがあったんでしょうね。


 そんな頃、「僕も映画監督になりたいんです」みたいな話すると、「学校なんか行くな。俺の弟子になれ」と言われて。「俺は日本映画に革命を起こす。俺が全部変えてやる。今の日本映画は全部クソだ」みたいなことサラリと言うんですよね。大言壮語ですよね。ビックリしますよね。なんてカッコいいんだと思っちゃいました(笑)。


 僕は当然狂映舎のたくさんのお兄さんたちの下っ端として働けばいいんだろうなと思ったけど、行ってみるとスタッフは誰もいないと。「お前だけだ。お前、チーフ助監督だ」「エーッ」という感じで。3〜4カ月前まで高校生で、「カチンコって何のために打つの?」みたいに言っているような何の段取りも知らない人間が石井さんの助手になって、地獄の半年が始まるわけです。


暴走族のふりをしてエキストラを勧誘


緒方 スタッフは、最初は狂映舎の人たちが現場に来てくれていたりしたんですけど、すぐ誰もいなくなって、石井さんとキャメラマンの笠松則通さんと照明の手塚義治さん、あと僕の4人になりましたね。4人で全部やってるんですよ。すごいですよ。それでエキストラ100人ぐらいいたりするんですからね。そのエキストラ100人集めたりするのも僕ですから。メチャクチャですよ。当時練馬に住んでいたんですけど、夜中、環七に行ってバイク止めましたからね。当時は土曜日に暴走族の集会とかあったので、それに行って、話をつけて。俺も眉毛剃って暴走族のふりしてイェーイとか言ってるんですよね。で、「お前、誰だ」みたいな話になって。「来週の土曜日、新小岩の何とか鉄鋼にまで来てくれないか」と。それで来るって言うんだけど、来ないんですよね。途中でパクられたりして。結局、石井さんにボロクソ怒られるというね。そういうエピソードだけで2時間ぐらい話せますけど(笑)。


注釈
1)『暗くなるまで待てない!』 1975年製作の大森一樹監督の16ミリ作品。
2)『Single8』 8ミリ映画作りに熱中する高校生を描いた小中和哉監督作品。



<聞き手>こなか かずや 1963年三重県生まれ。映画監督。小学生の頃から8ミリカメラを廻し始め、数多くの自主映画を撮る。成蹊高校映画研究部、立教大学SPPなどでの自主映画制作を経て、86年『星空のむこうの国』で商業映画デビュー。97年、『ウルトラマンゼアス2 超人大戦・光と影』でウルトラシリーズ初監督。以降、監督・特技監督として映画・テレビシリーズ両方でウルトラシリーズに深く関わる。特撮、アニメーション、ドキュメンタリー、TVドラマ、劇映画で幅広く活動中。主な監督作品に、『四月怪談』(1988)、『なぞの転校生』(1998)、『ULTRAMAN』(2004)、『東京少女』(2008)、『VAMP』(2019)、『Single8』(2022)、『劇場版シルバニアファミリー フレアからのおくりもの』(2023)など。


〈 朝起きたら白菜になっていた——緒方明監督が衝撃のデビュー作『東京白菜関K者』に込めた“社会への悪意” 〉へ続く


(小中 和哉/週刊文春CINEMA オンライン オリジナル)

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