『爆裂都市』の現場で助監督・緒方明が石井聰亙(岳龍)監督を面罵した理由「映画監督というのは撮りたいものをただ撮りたいと言っているだけでいいわけ?」

2025年4月25日(金)7時20分 文春オンライン

〈 朝起きたら白菜になっていた——緒方明監督が衝撃のデビュー作『東京白菜関K者』に込めた“社会への悪意” 〉から続く


 8ミリ映画『東京白菜関K者』が大島渚、長谷川和彦らに激賞され、ぴあフィルムフェスティバルで入選した緒方明監督。再び石井組に戻って『爆裂都市 BURST CITY』に参加するも、現場はまた大混乱を来した。やがて緒方監督は、石井監督と激しく衝突してしまう。(全4回の3回目/ 4回目 に続く) 


◆◆◆


『爆裂都市』が大失敗した理由


——その後、また石井組ですね。


緒方 そうですね。『爆裂都市 BURST CITY』が動き始めていました。今度はダイナマイト・プロとして、東映からウン千万かもらって、作るという。これが大失敗に終わるわけですよね。



緒方明監督 ©藍河兼一


——石井さんからもお聞きしましたけど、緒方さんの目からはどんな現場に見えたんですか?


緒方 やっぱりアマチュアは駄目だなと僕は思いましたね。つまり、撮りたい画、撮りたいコンテを撮るのが映画監督ではなくて、ちゃんとスケジュールを読めて、そこにはめていくことも含めて映画監督なんだと。だから、総合スケジュールが出た時に読めないといけない。例えば5000万なら5000万で撮ると。5000万で撮るということは、ロケーションは何日で、どれぐらいの規模であるということを監督は分かってないといけないんだなと思って。石井さんも頭では分かっているんですよ。だけど、助監督経験がないから、体では分かってない。それじゃあやっぱり自主映画って駄目なんだなと。


 俺たちで、それこそエキストラがウン百人毎日来て、毎晩徹夜でやっていて、もう仕切れないわけですよね。自分らの限界を超えている。よくやったとは思うんですけれども、映画の組として成立してないわけですよね。そこは石井組は弱いなと思いました。情熱だけでは映画は作れないという現実に気づかされた。映画というのは組でやる。監督が組を成立させる。そこが一番大事なんだと。自主映画というのは、監督のやりたいことをやらせるわけですよね。でも、監督のやりたいことをやるというのが映画のすべてではないと僕は今も思っていますから。


——やろうとしている内容が予算とか日数と全然違ったということですか。


緒方 5000万の予算で1億のことをやろうとすれば、それは破綻します。つまり、何をやって何をやらないのかということのハンドリングというか、コントロール能力というのかな。監督ってそういうことだと思うんですよね。予算を守った上で、日数を守った上で、その中でどう差配していくかということが監督なので。だから、『爆裂都市』は敗北宣言ですよね。ただただ勢いと情熱だけでやってしまった。勢いと情熱だけで『東京白菜関K者』や『サンダーロード』は作れても、それ以上のものは作れなかったということでしょうね。そこはやっぱり日本映画が、当時で70〜80年かけて作ってきた作り方の伝統というものは、ちょっとやそっとじゃぶっ壊すことはできないんだなということはすごく感じました。


——緒方さんは日本映画界の映画の作り方を、ピンク映画という小さな規模ではあっても少し分かってきたという段階だったと思うんですけれども。作り方をぶっ壊すという前に、ちゃんと学ばないといけないと感じたんですか?


緒方 僕はものすごく感じましたね。だから、『爆裂都市』の後、石井さんの『アジアの逆襲』というプロモーションフィルムみたいなものをやった時に、石井さんと大ゲンカしまして。「あんたなんか監督でも何でもない」というすごい失礼なことを現場で言いましたね。つまり、スケジュールを出して、それが撮れないなら撮れないと言ってくれればまだ考えられるし、1カット2カット取りこぼすならまだ分かるけれども、予定の半分も消化出来ない。映画監督というのは撮りたいものをただ撮りたいと言っているだけでいいわけ? という。だから、僕は『爆裂都市』の後に自主映画全否定ですよ。自主映画じゃもう駄目だと。


『逆噴射家族』の助監督よりもカラオケビデオの監督を選ぶ


緒方 『爆裂都市』が終わった後、少ししてディレクターズ・カンパニーができるわけですよね。その頃僕は、とにかく映像でお金をもらうんだという意識がすごく強かったです。つまり、バイトしてお金をためて自主映画を撮る、もっと言うと、今村昌平さんみたいに、借金して自分のやりたいものを追求して構想何十年でやるみたいな、そういう映画ももちろんあってもいいんですけど、そうじゃなくて、俺はやっぱり映像のプロフェッショナルなんだ、それで飯を食っていくんだということを、すごく自分で意識して標榜してましたね。


 ディレカンができた時に、『逆噴射家族』の助監督をやってくれないかというのが来たわけですよね。実は『逆噴射家族』は準備の時は手伝っていたんですが、長谷川和彦さんか高橋伴明さんかどっちか分からないですけど、「緒方はチーフに使うな。笠松はキャメラに使うな」と石井さんに言ったらしいんです。「お前は自分のスタッフとではなく、プロとしてプロとやるべきだ」という。それは正しいことなので。それでチーフの方がいらっしゃって、僕をセカンドで使いたいとなった時に、僕はディレカンのカラオケビデオの監督を選ぶんですよね。ディレカンでカラオケビデオをやっていて、その監督を平山秀幸さんや黒沢清さんとかそうそうたるメンバーでやっているんです。演歌の『花と蝶』とかやったりして、1本につき2〜3万ぐらいもらっていたのかな。そういうことをやりたいんだと思いましたね。映像で飯を食う。だから、映像で自分が表現したいものを追求するという考え方、それは石井さんにいまだに脈々とあると思うんですけど、そこは当時から僕はちょっと違うんですよね。映像のプロフェッショナルになっていくということですね。


——お金は関係ない作家か、お金をちゃんともらうプロか、みたいな。


緒方 結局映画というのは産業なんだなと。それこそ石井さんがいみじくも言ったけど、「チケット1枚売ったらそれで500円入ってきてラーメン1杯食える、これが自主映画なんだよ」というのは全くそのとおりで。映画が成立するのはスクリーンと別に、窓口でお客さんから1500円もらって、そこで成立するという考え方もあるじゃないですか。自分はやっぱり産業として社会に貢献していって、その中でプロとしてお金をもらうということが大事なんだなと。


——緒方さんは結局『逆噴射家族』に付かなかったんですね。


緒方 僕は付かなかったです。僕は俳優で出てますね。石井さんは僕を欲しかったんでしょうね。準備の時も手伝ったりして、現場もエキストラに毛の生えたような俳優で何日か行ってますけれども。あの辺から石井さんとは、監督と助監督みたいな関係とは距離を置き始めたようなところはありますね。


20代、30代はCM、テレビディレクターとして活動


——その後、緒方さんは映画からしばらく離れるんですね。


緒方 自分がやれることは何だろうと思った時に、助監督としてやっていく、もちろんそれもあるんだけれども、時代はバブルに片足突っ込み始めていましたから、仕事は来るようになるんですよね。一時期はコマーシャル会社に籍を置いて2〜3年、コマーシャルは助監督はないですから制作の下っ端として働いたりした。そういったところで自分の演出技術を売ってお金に換えていくということをやってみたかったんでしょうね。だから、自分で名刺を作って、いろんなところに「よろしくお願いします」とハガキを出すと、1社か2社来るわけですよ。それをやるようになりました。


——それはそれで楽しい作業ではあったんですか?


緒方 そうですね。どこかで「映画はもういいや」みたいな気持ちにはなってましたね。自分が映画として、例えばシナリオを書いて、どうしても描きたい世界観があるみたいなことではなくて、求められて…例えば、ホンダの新しいバイクが出たら、そのバイクをかっこよく撮るみたいなことがCMじゃないですか。そういうことをプロとしていろいろ考えたりすることのほうが自分に向いているんじゃないかなと思っていたこともあったので。全く興味はないけれどもPRをしていく、そういうことが実は映像のプロなんじゃないかなと。


——そこに自分の映像の技術や知識が生かせれば、という?


緒方 作家性よりも職人性みたいなことですよね。


——CMやPVから、次にテレビ関係に広がっていったんですか?


緒方 そうですね。それは本当に人の縁で。やっていったら収入は上がっていくし、人脈も広がっていくし。それでテレビのほうからお声がかかるようになって。


一番やったのは『驚きももの木20世紀』


——テレビ時代はどんな番組を?


緒方 『驚きももの木20世紀』(テレビ朝日系)。あれを一番やりました。


——ドキュメンタリーですか? 


緒方 ドキュメントでもあるしドラマ部分もあるし。『驚きももの木』は全部やらないといけないので。今はもうそんなことはあり得ないですけど、演出家がドキュメンタリーから資料調べから、資料映像も探して、なおかつ、再現シーンでは役者を差配して、照明さんとか撮影部さん、美術さんを呼んでいろいろやって。スタジオも仕切りますから。


——スタジオまでやるんですね。


緒方 やります。MCは三宅裕司さんと麻木久仁子さんでしたけど、打ち合わせをやって、ゲストの選定も。それは面白かったですね。そこで青木研次という相棒と知り合えて、次の映画につながっていくんですけどね。


——構成作家さん?


緒方 そうですね。青木が番組の立ち上げの時にメインディレクターで俺を呼んでくれたということですね。


——30代までそんな感じだったんですか。


緒方 僕は30代がテレビ時代ですね。最初はフジテレビの深夜のドキュメンタリーから始まって、ドキュメンタリーとか情報系ですよね。旅番組なんかもやりましたし。それがNHKの『ETV特集』、『ハイビジョンスペシャル』なんかにもつながっていくんですけれども。そういうノンフィクション系で30代はやっていって。フリーランスでしたけれども。収入もよくなった時に、やり残したのは映画なのかな、みたいなことは思うようになったんですけどね。


〈 「スタッフ、キャストが、監督が何を分からないと言っているのかが分かること」緒方明監督が考える「映画作りで大事なこと」 〉へ続く


(小中 和哉/週刊文春CINEMA オンライン オリジナル)

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