戦争、シリアルキラー、AI…それぞれの時代に生きた一人の女性が、100年以上待ち続けた“何か”とは
2025年4月26日(土)7時10分 文春オンライン
映画の冒頭、グリーンバックの前に立つ俳優レア・セドゥが映る。空っぽの場で一人芝居をする彼女の姿に、一体何が始まるのかと戸惑わずにいられない。不思議な冒頭からわかるように、ベルトラン・ボネロ監督の『けものがいる』は、観客の意表をつく場面が連続する驚くべき映画。原作はヘンリー・ジェイムズの中編小説『密林の獣』。人生の中で「何か」が起こるのを期待する男と、彼と共に何十年もその瞬間を待ち続けた女の数奇な運命の物語だ。

『メゾン ある娼館の記憶』(2011)、『SAINT LAURENT サンローラン』(2014)とゴージャスで先鋭的な映画を手がけてきたボネロ監督は、映画化に際し大胆な翻案を施した。主人公はレア・セドゥ演じるガブリエルという女性に変わり、さらに3つの時代を生きる3人のガブリエルが登場する。1910年のパリで活躍するピアニスト。2014年のロサンゼルスで働くモデル。そしてAIが進化し人間の感情が不要とされた2044年に「感情の消去」を行おうとする女性。3つの時代ごとに、ガブリエルはイギリス出身の俳優ジョージ・マッケイが演じるルイという男と出会い、その度に惹かれ合う。いったいどんな発想からこのような独創的な映画が誕生したのか、ベルトラン・ボネロ監督にお話をうかがった。
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本当の意味で解放されるまで、人は同じことを永遠に繰り返す
——ヘンリー・ジェイムズの原作小説『密林の獣』は、何か決定的な瞬間が訪れるのを待ち続けたあげく、もっとも大事なものであったはずの「愛」を取り逃がしてしまう人の話として読みました。監督は、この小説をどのように受け止め、映画化を決意されたのでしょうか?
ベルトラン・ボネロ おっしゃるように、『密林の獣』は、愛することへの恐怖が先に立ち、身動きがとれなくなってしまう男の話です。彼はすぐにでも愛に手が届く場所にいるのにどうしてもそれに近づくことができず、気づいた時には手遅れになっているのです。
——映画では、原作よりもさらに長い時間が描かれますが、百年以上にまたがる3つの時代を経てもなお、主人公は大事なものを取り逃がしてしまいます。
ベルトラン・ボネロ 「永劫回帰」という言葉がありますよね。本当の意味で解放されるまで、人は同じことを永遠に繰り返すという考え方です。ガブリエルはまさに永劫回帰の状態にあり、前の時代にしたことを次の時代でも繰り返してしまうのです。もちろん私自身は彼女の解放を望んでいるのですが。
——原作の主人公は男性でしたが、映画版で女性に変えたのはなぜでしょう?
ベルトラン・ボネロ 物語のテーマとして主人公が男性でも女性でもかまわないと感じたのが理由のひとつ。それと私は今回、自分が今までやってこなかったことを試してみたいと思ったんです。『メゾン ある娼館の記憶』では複数の女性たちを主人公にしましたが、ひとりの女性を主人公にした映画を、私はまだ作ったことがなかった。男性主人公の話は『SAINT LAURENT サンローラン』ですでにやっていますから、今回はひとりの女性を主人公にした映画を作ってみようと思ったわけです。
——レア・セドゥの存在感が強烈でしたので、彼女の起用が決まってから、主人公のガブリエルの造形が出来上がったのかなと思ったのですが。
ベルトラン・ボネロ 女性の主人公にしようと決めたのとほぼ同時にレア・セドゥの起用が決まったので、特に彼女の存在によって脚本の内容が変わったということはありません。ただしオープニングの場面に関しては、彼女だからこそ生まれたものだといえますね。レア・セドゥ本人が登場し、演出の指示を受けながらグリーンバックの前で演じてみせる。ここは映画の物語からは少し逸脱し、彼女の存在こそが私の映画のテーマであると、意識的に主張した場面です。
3つの時代のガブリエルはやはり一人の女性である
——まさにオープニングから意表をつかれ驚かされることばかりの映画でした。原作からの翻案として、1910年、2014年、2044年という3つの時代を舞台にした理由を教えていただけますか。
ベルトラン・ボネロ 最初の時代は第一次世界大戦前、当時はいろんなものが発明された刺激的な時代で、世界は20世紀に入ったばかりで光り輝いていました。そして2014年は、エリオット・ロジャーというシリアルキラーの存在が世界中の人々の脳裏に強く刻み込まれた年といえます。劇中で2014年のルイがiPhoneで自分を撮影している姿が描かれますが、このモデルになったのがエリオット・ロジャーです(注:エリオット・ロジャーはインセルを自称する女性蔑視主義者で、犯罪を予告する動画をYouTubeに投稿した後、カリフォルニア大学サンタバーバラ校近くで大勢を殺傷し自殺した)。
ひとつ重要なのは、2014年は#MeToo運動が起こる前の時代だったということ。#MeTooの前と後とでは、私たちの女性に対する見方は本当に大きく変わった。エリオット・ロジャーのような人物を生み出したのはまさに運動が起こる前の時代でした。それから2044年は、私にとっては遠い未来ではありません。明日にでもすぐそうなりそうな近未来として設定しました。
——先ほど監督は、今回はひとりの女性主人公を描きたかったとおっしゃっていましたが、つまり3つの時代に登場する3人のガブリエルはたったひとりの存在として捉えていいのでしょうか? 同じガブリエルという名前でありながらも3人それぞれに違う存在とも捉えられそうですが……。
ベルトラン・ボネロ ガブリエルという人物をどう見せていくかについてはずいぶん頭を悩ませました。それぞれのガブリエルは独立した人物に見えますが、実は2044年のガブリエルは、1910年と2014年のガブリエルの集大成でもある。つまり時を経るごとにガブリエルという存在が少しずつ集積され、最後にひとつの存在に到達するのです。だからここに登場する3つの時代のガブリエルはやはり一人の女性であると私は考えています。
レア・セドゥの声は驚くほど美しい
——俳優たちについてもお聞かせください。レア・セドゥという俳優は、フランス映画にかぎらず、いろんな国のさまざまな作家の映画に出演しています。監督は過去作でも彼女を起用されていますが、俳優としての彼女をどのように感じていらっしゃいますか?
ベルトラン・ボネロ 前回『SAINT LAURENT サンローラン』で彼女と一緒に仕事をしたのは2014年の頃でした。その後彼女はますます多くの経験を積み、俳優として大きな力を得たはずです。特に感じたのは、未知のものに飛び込むのを恐れない態度ですね。新しいものはなんでも試してみようとする力を以前よりさらに強く感じました。
——監督は特に彼女の声に惹かれ、起用を決めたそうですね。
ベルトラン・ボネロ 私にとって声は配役を決めるうえで非常に重要なもので、声が気に入らない俳優を起用することは絶対にありません。レア・セドゥの声は、フランス語を話しているときも、英語を話しているときも驚くほど美しいんです。とても穏やかな優しさを保ちながら、同時に、抑揚を欠いた声を出せる。そうかと思えば、すべての発音がしっかり耳に届くよう、とても滑舌のいい話し方もできる。彼女に当て書きをするようにしてダイアローグを書くとき、彼女がそれを読むことを想像するのが、私にはとてつもない快感でした。
——声といえば、今回、映画監督のグザヴィエ・ドランが声だけの出演をされていますが、これも彼の声に惹かれての起用だったのでしょうか?
ベルトラン・ボネロ 彼はこの映画の共同プロデューサーでもあったので、何らかの形でその存在が作品に残るといいなと考えるうち、ああいう形での出演になりました。私はあまり感情をこめずにしゃべってくれと頼んだんですが、彼は「それは僕には無理な注文だ」と言っていましたね(笑)。
——今回、ジョージ・マッケイが演じたルイ役は当初ギャスパー・ウリエル(注:2022年に事故で急逝)が予定されていたそうですが、彼の急死をうけて、映画の内容も大きく変わっていったのでしょうか?
ベルトラン・ボネロ 変化があったとしたら、新たに英語圏の俳優を起用しようと決めたことでしょうか。1910年のパートはもともとすべてフランス語の予定として脚本を書いていましたが、ジョージ・マッケイを起用したことで、ルイの役柄は英語とフランス語のバイリンガルという設定になりました。それ以外の物語部分はほぼ変わっていないはずです。
——ジョージ・マッケイ演じるルイもユニークで素晴らしいキャラクターでしたが、映画を見ながら、ギャスパー・ウリエルの存在を画面のどこかに感じてしまいました。
ベルトラン・ボネロ たしかにこの映画をつくりながら、私たちはいつもギャスパーの存在を亡霊のように感じていました。もちろんとてもポジティヴな意味で。私たちに良いものをもたらす存在として、彼の気配をつねに身近に感じていたんです。
デヴィッド・リンチは、もっと自由に、より大胆になれと教えてくれた映画作家でした
——現実と幻想が混ざり合うスタイルや、悪夢のようにシュールで美しい映像は、どこかデヴィッド・リンチ監督の映画世界に通じるものを感じたのですが、意識はされていましたか?
ベルトラン・ボネロ 意識していたわけではありませんが、これまでずっとデヴィッド・リンチの映画を見続けてきましたから、自ずとその影響が浮かび上がってきたのかもしれません。リンチは、物語の語り口であれスタイルであれ、もっと自由に、より大胆になれと教えてくれた映画作家でした。
——最後に、ヴェネチア国際映画祭での上映時にも話題を呼んだというエンドクレジットについても教えてください。クレジットが始まった途端に現れるQRコードに誰もが衝撃を受けると思います。あれはまさに「もっと自由に、より大胆に」という教えに沿ったものなのでしょうか?
ベルトラン・ボネロ エンドクレジットのQRコードは私がとてもこだわったアイディアです。最初はなかなか許可がおりなかったのですが、なんとか実現にこぎつけられて本当によかった。私にとってはエンドクレジットも含めてひとつの作品ですし、映画の内容にもぴったりではないでしょうか。映画が描く近未来の世界では、我々人間はもはや非人間化された存在となっている。それを的確に表現した終わり方になったかと思います。
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映画『けものがいる』
4/25(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町、新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国順次公開
https://kemonogairu.com/
(月永 理絵/週刊文春)