「井口」から「岐阜」と改称した織田信長…「信」のへん・つくりを離し、間に「長」を押し込む署名

2025年5月2日(金)7時40分 読売新聞

 岐阜市歴史博物館(岐阜市大宮町)で、戦国武将・織田信長が岐阜城主の時代に家臣に宛てた朱印状が初公開されている。信長の岐阜での統治の様子を知ることができる貴重な資料となっている。公開は6日まで。

 信長は1567年に稲葉山城を攻略してこの地方一帯を平定し、地名を「井口いのくち」から「岐阜」と改称した。岐阜城主を67年から75年まで務めたとされる。

 今回公開された朱印状は縦13センチ、横41センチで、岐阜城主時代の信長が72年(元亀げんき3年)11月12日付で家臣の赤澤右近あかざわうこんに宛てた文書。蘇原郷そはらごう(現岐阜県各務原市)の土地に加え、八幡根本寺はちまんこんぽんじ(現加佐美かさみ神社=各務原市)の所領のうち、耕作が行われていない土地と所有者が不在の土地を与えるとともに、土地の状況を正確に把握して支配しなさい——と命じている。

 岐阜を拠点とした時期から使い始めた「天下布武」の朱印がされているほか、「信」の「へん」「つくり」を離し、その間に「長」の字を押し込むような書き方が特徴的な信長直筆の署名も見てとれる。

 本文は、その筆跡から、信長の右筆ゆうひつ(書記役)の一人、武井夕庵せきあんと考えられる。担当者は「夕庵は斎藤道三公にも仕えた戦国武将なので、美濃にゆかりの深い古文書と言える」と指摘する。

 同館では信長の朱印状を計3点所蔵しているが、岐阜に直接関わる内容の文書は今回が初めて。柴橋正直市長は記者会見で「信長公が生きた時代の資料をご覧いただき、信長公の時代に思いをはせてもらいたい」とPRしていた。

 公開期間中は、同館が所蔵するほかの信長の朱印状や、岐阜城主時代の信長の動向、朱印状以外の信長の古文書もパネルで紹介する。

朱印状に記された文言

蘇原郷高頭千

五拾貫文之外、

八幡根本寺領永

不作方并給人

はつれの事、令

扶助候、遂糺明可

領知之状如件、

元亀三

十一月十二日 信長(朱印)

赤澤右近殿

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