「かわいげがあるやつだった」島田紳助(68)と関係を結んだことも…20代前半にして“大物芸能人たちの仲間入り”「ガーシー(52)のビジネス手腕」――2024年読まれた記事

2025年5月6日(火)18時0分 文春オンライン


2024年、文春オンラインで反響の大きかった記事を発表します。インフルエンサー部門の第1位は、こちら!(初公開日 2024/12/16)。



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 その交友関係は広く、お笑いコンビ「ロンドンブーツ1号2号」の田村淳や引退した島田紳助と交友関係を結んだことも…。有名俳優の下半身スキャンダルやタレントの違法賭博など衝撃的な話題を扱うYouTuberとして、かつて名を広めたガーシーこと東谷義和氏。


 そもそも彼はどうやって芸能界との接点を持ったのか? 若かりし彼が女性や有力者を紹介する「アテンダー」として成り上がり、転落していくまでを、ジャーナリストの石戸諭氏の新刊『 「嫌われ者」の正体:日本のトリックスター 』(新潮社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/ 後編 を読む)



有名人に女性を手配する“アテンダー”として夜の街で暗躍していたガーシー。一流芸能人たちとも交流を結んだ、その才覚とは? ©文藝春秋


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ガーシー誕生秘話


 アテンダー、暴露、そして政治の世界……。起伏の激しい東谷の人生を波に喩えるなら、その高低差は東谷が身を置いた「裏稼業」の天国と地獄を意味している。


 1971年、兵庫県伊丹市に生まれた東谷は、マンションや戸建が並ぶ住宅街の一角で育った。高校教員の父、母と妹の4人暮らしだ。父は兵庫県内の公立高校で校長まで務めた人物で、母は近所の飲食店にパートに出ていた。東谷本人が語るところによれば、後年、父はギャンブルによる借金苦で自死を選んだという。地元で当時を知る人々は口を揃えて「家族の仲は良かった」と語る。第2次ベビーブーム世代が大量に進学する時代である。大阪市、神戸市という二大都市のベッドタウンである伊丹市にも多くの子供が集まっていた。中学の同級生は「彼が目立っていた印象はない」と語っていた。世間を騒がすガーシーが同級生にいた東谷義和と結びついたのはごくごく最近のことだったという。東谷もまた、数多くいる団塊ジュニアの一人だったのだ。


 伊丹市内の公立高校から大阪の阪南大学に進学すると、東谷は次第に交友関係を広げ、アテンダーとしての片鱗を見せ始めた。


 東谷の大阪時代の遊び仲間で、実家にも行ったことがあるという男性の証言──「ヒガシさん(東谷)と初めて出会ったのは、ちょうどバブルの前後かな。大学のサークルの延長みたいな感じで、大阪や地元・伊丹のヤンチャな若者がクラブに集まって遊ぶゆるやかなグループがいくつかあったんです。僕たちの兄貴分みたいな感じですね。最大の魅力は人を集める力です。女子大生や女の子をすぐに集めて、紹介してくれました」


 東谷は大学を卒業後、中古車販売業や板金工場の経営をしながら、夜の世界ではイベントを企画してパーティー券を売り捌く生活を始めていく。毎晩のように大阪のクラブに出入りしながら、着実に人脈を作り上げていった。一度入り込んでしまえば、どこの世界でもネットワークは狭いものだ。入り込むにあたって、最初期の運転資金は大学時代の指導教員に頼った。原資としたのは、この指導教員から借りた100万円だった。


 指導教員が取材に語ったところによれば大学時代の講義を受ける態度は決して悪いものではなく、どちらかといえば利発な学生としての印象が強く残っているという。


「講義は要領よくこなして単位を取り、自分のために時間を使っていた。 (卒業した東谷から)事業をやりたいと相談を受けて、貸したのは事実です。彼のお父さんからも電話でお礼をいただいた記憶がある。貸すと言っても無利子無担保なのであげるのと同じ、と考えていました」


 指導教員のもとには、その後数年にわたって彼が立ち上げた「マーベラストーキョー」という会社からA4用紙1枚の事業報告が届いたが、ある時から途絶えた。もっとも、事業そのものは好調だったようだ。1995年の阪神・淡路大震災後の中古車需要増加を追い風に、東谷の懐には金が舞い込んだ。大阪・梅田のキャバクラで豪遊し、ギャンブルにものめり込む。こうした派手な金遣いは、そのまま人脈への投資になっていた。東谷が東京に進出したのも、この時期だった。


引退した島田紳助とも交流が…


 20代前半の東谷は、大阪を代表する繁華街ミナミのバーで、お笑いコンビ「ロンドンブーツ1号2号」の田村淳と知り合う。ウマがあったのか田村に誘われるがまま東京に拠点を移し、島田紳助ら芸能人たちとも着々と信頼関係を築いていった。六本木にバーを開くと、山田孝之佐藤健、三浦翔平といった、のちに彼の暴露の対象となる俳優たちも通い詰めた。


「東京でも、やっていることは大阪時代と変わりませんでしたよ。可愛い女子大生や企業の御曹司なんかを、知り合いに紹介する。その相手が普通の友達から、芸能人になっただけでしょう」 (伊丹時代から東谷を知る知人)


 東谷の「アテンド手法」は当初から一貫している。ある番組の収録後に芸能人から女性と飲みたいという依頼があれば、リスト化している女性の連絡先に一斉に送り、時間が合う女性をあてがう。「旅行に行きたい」と言われれば、同伴を希望する女性を選び、航空券やホテルまですべて手配する。パーティーに行きたければ、芸能人たちは指定された場所に行くだけでいい。そこで起きたことは絶対の秘密とする。芸能界を生き延びる秘訣は「顔が広く、口が堅い」ことだ。忠実に仕事をこなす東谷は、圧倒的な信頼を得ていった。やがて、彼は自らに課した掟を自ら破ることになるのだが……。


 2010年代の半ばには俳優だけでなく、多くの芸能事務所の関係者とも関係を深めていく。その時の方法も一貫している。


〈これも何かの縁ですわ〉


〈僕は年齢も下ですから、これからは子分と思ってお付き合いさせていただきます〉


 東谷と会話した事務所関係者たちの証言で共通しているのは、このように腰が低く、丁寧に頭を下げて回る東谷の姿だ。


天国から地獄へ…東谷の人生に起きた異変


「かわいげがあるやつだって印象はあったね。暴露動画で怒っている顔とはまったく別で、ニコニコして調子のいいことを言っていた。懐に入り込むのはうまかったということだ」(芸能事務所幹部)


 たとえその場にいなくとも、関係者を満足させることで信頼を獲得する。当時の東谷が自身に課していた最大の原則だった。こんな話がある。ある時、北海道で地方競馬の賞レースを終えたばかりの有名ジョッキー、調教師の接待先に困った芸能事務所の関係者が彼に電話を入れた。どこか札幌市内に良い店はないか。ざっくりとした予算とともにそう東谷に尋ねると、すぐさま店の手配を終えたという連絡が返ってきた。連絡した通りに店へと入ると、準備はすべて整っており、満喫するだけで良かった。感嘆した件の関係者がいくら礼を述べても「大したことじゃないので。いつでも言ってください!」と謙虚に振る舞っていたという。


 東谷は持ち前の話術で人の懐に飛び込み、厚い信頼を得ていた。頼られるのが好きな彼にとって、芸能人たちに囲まれた暮らしはまさに天国であり天職だっただろう。だが、2021年12月、Youtubeにアップされた一本の動画をきっかけに、東谷の人生は地獄へと転がり落ちる。



2024年 読まれた記事「インフルエンサー部門」結果一覧


1位:「かわいげがあるやつだった」島田紳助(68)と関係を結んだことも…20代前半にして“大物芸能人たちの仲間入り”「ガーシー(52)のビジネス手腕」
https://bunshun.jp/articles/-/78707
2位:「僕たちはふたり一緒に生きていて、幸せだった」“節約の鬼”だったサニージャーニーこうへいが妻の誕生日に送った「最高のプレゼント」の正体
https://bunshun.jp/articles/-/78706
3位:「お尻はビクビクッと震えていた」リンパ汁も出てきて…全身にタトゥーを入れた女性(33)が明かす、タトゥーを入れた意外な理由
https://bunshun.jp/articles/-/78705
4位:桜蔭→慶應医学部→モルガン・スタンレーを3カ月で退職…超エリート女性(24)が年収も地位も捨てて南房総で“年間100万円以下の生活”を始めたワケ《23歳でサイドFIRE》
https://bunshun.jp/articles/-/78704
5位:15歳で妊娠、高校退学し16歳でワンオペ育児…出産した三児の母(22)が語る、若ママへの偏見「子どもが子どもを産んだって…」
https://bunshun.jp/articles/-/78703



(石戸 諭/Webオリジナル(外部転載))

文春オンライン

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