イチローの「4367本」でも王貞治の「868本」でもない…現代野球で最も破るのが難しい“アンタッチャブルレコード”とは
2025年5月11日(日)12時10分 文春オンライン
〈 「イチロー」でも「ランディ・バース」でもない…過去“打率4割バッター”の座に最も近付いた「伝説の助っ人」とは 〉から続く
日本のプロ野球にはさまざまな金字塔がある。例えば、王貞治が生涯に放ったホームランの数である「868本」はその一つだ。しかし、それ以上に難しい記録があるという。『 野球の記録で話したい 』(広尾晃著、新潮社)から一部抜粋し、お届けする。(全3回の2回目/ 前回を読む / 続きを読む )
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「王の868本」より難しい「金田の400勝」
王貞治の868本塁打の更新は至難の業ではあるが、MLBで主流になっている「フライボール革命」がNPBでも普及して、素質ある選手が純粋に「本塁打だけ」を狙うようになれば、王の記録に迫るのは「絶対に不可能」とまでは言えない。しかし金田正一の400勝は「投手の分業」「ローテーション」という今の野球が変わらない限り、更新は不可能だ。
金田は1950年にプロデビューし、1969年に引退した。キャリア20年で400勝、毎年20勝を20年間続けたことになる。2005年から2024年までの20年間、両リーグで最も勝ち星を挙げた投手の勝利数を合算しても、340勝にしかならない。
この間、20勝投手は2008年、楽天の岩隈久志(21勝)、2013年同じく楽天の田中将大(24勝)の2人しか出ていない。プロ野球というスポーツが、大きく変わらない限り、金田正一の記録はすべての投手の上に輝き続けることになる。
筆者は、金田の現役時代を辛うじて知っているが、それは巨人の背の高いベテラン投手としてだった。大スターの長嶋茂雄を「おい、シゲ!」と呼び捨てにするなど横柄な印象だったが、金田正一の全盛期は巨人時代ではなく、同じセ・リーグの国鉄スワローズ時代だった。
あだ名は「国鉄の天皇」 退団でチームの「身売り騒動」も
国鉄は、その名の通り日本国有鉄道が球団を保有し1950年のセ・パ分立時にセ・リーグに加入したものだ。金田は創設1年目に入団したが、金田が移籍する1964年まで一度も優勝したことはない。そんな弱小チームで、金田はアンタッチャブルな400勝の大部分を稼ぎ出したのだ。
金田の所属球団別の投手記録は上の表の通り。金田が在籍した期間の国鉄は833勝1070敗(勝率.438)だから、金田はひとりでチーム勝利数の約4割を稼いでいたのだ。金田は弱い国鉄にあって孤軍奮闘していたのは間違いない。
金田は後年「わしが最初から巨人に入っていたら500勝はしておったろう」と言った。国鉄の勝率.438に対し、同じ期間の巨人の勝率は.613(1173勝739敗)だから、あながちほら話とは言えない。
まさに金田は国鉄の大黒柱だった。国鉄は金田が退団した1964年オフに、当時から一部の株式を保有していた産経新聞社に持ち株全てを売却したが、これは当時の国鉄総裁が「金田がいない球団を持っていても仕方がない」と思ったからだと言う。一方の金田は「国鉄が株を売り渡すと言うから移籍したんや」と言っている。真偽は不明だが、ともかく金田あっての国鉄だったのは間違いない。国鉄時代にメディアが言った「金田天皇」という言葉は決して大げさではない。
圧倒的に白星を稼げた「シンプルな理由」
金田がなぜこれだけ傑出した成績を挙げることができたのか? 一つには、彼が当時としてはずば抜けて大柄だったことがある。身長184cmは、今のプロ野球なら平均より少し上程度だが、1950年代の成人男性の平均身長は162cm前後、プロ野球選手でも170cm程だった。この時代に184cmの上背から投げ下ろす球は圧倒的な威力があった。
NPBで300勝投手は5人いるが、米田哲也180cm、小山正明183cm、鈴木啓示181cm、別所毅彦181cm、ヴィクトル・スタルヒン191cmと、全員が当時としてはずば抜けた長身だった。
もう一つは、金田が「高校中退」で入団したこと。金田は愛知・享栄商の3年に上がる前に国鉄に入団している。まだ16歳だった。すでにプロで通用する実力があったが、デビューが他の選手よりも早かったのが大きい。
また1950年はプロ野球がセ・パ2リーグに分れたばかりであり、戦力が整備されていない球団も多く、実力差が大きかった。金田は巨人、阪神などにはあまり通用しなかったが、西日本、広島、大洋など新興チームから多く勝ち星を挙げた。そういうレベルからスタートして、次第に実力を蓄えていったのだ。
そして何より大きかったのは「故障しなかった」こと。金田は独自のトレーニング法を磨くとともに食生活にも細心の注意を払った。デビュー当時、貧しかった金田の肩には家族全員の生活が懸かっていた。絶対に故障できないと言う責任感があったのだ。動画を見ると、今の投手とは異なり、金田正一は、ゆったりとした無理のない動作からボールを投げ込んでいる。打者との実力差もあったが、金田は自らの努力で「怪我をしない投球術」を編み出したのだ。
ただ、金田が前人未到の「400勝」を挙げることができたのはその実力に加え「弱小球団だったから」という側面も実はあるのだ。
〈 なぜ読売ジャイアンツで「大投手」は育たないのか 「伝説の名投手たち」が弱小球団でばかり生まれる“悲しすぎる理由” 〉へ続く
(広尾 晃/Webオリジナル(外部転載))