「偽善っぽいチャリティは嫌い」歴代最低視聴率だった“24時間テレビ”をわずか1年で「V字回復」させた“立役者”《24時間マラソンとサライはこうして生まれた》
2025年5月20日(火)18時0分 文春オンライン
〈 「おっぱいは表の文化でお尻は裏の文化」「こっちは和尻」「あっちは洋尻」テレ朝で40年続いた“伝説の番組”の“コンプラ度外視コーナー”誕生秘話 〉から続く
1978年に始まったチャリティ番組『24時間テレビ』。今ではマラソンや楽曲『サライ』が代名詞となっているが、誕生したのは意外と最近のことである。当時は歴代最低視聴率を記録し、番組が踊り場に直面していた時期だった。『 「深夜」の美学 『タモリ倶楽部』『アド街』演出家のモノづくりの流儀 』(菅原正豊、戸部田誠著、大和書房)から一部抜粋し、お届けする。本文中の太字部分は戸部田誠氏による記述、それ以外は菅原正豊氏の語り。(全3回の2回目/ 前回を読む / 続きを読む )

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1991年の『24時間テレビ』は歴代最低の視聴率を記録。だが、社会的に意義の大きいチャリティ番組を視聴率が悪いという理由でやめるわけにはいかなかった。そこで考えられたのが番組の抜本的なリニューアルだった。
菅原は、その1992年と続く1993年の総合演出に起用されたのだ。『24時間テレビ』で、局外部のディレクターが総合演出を務めるのは異例中の異例。「何としても変えて成功させる」という決意のあらわれだった。
結果、ダウンタウンを起用したリニューアル1年目の1992年に歴代最高視聴率を記録する。そして視聴率だけではなく、その後の番組テーマ曲となる『サライ』を生放送中に制作し、現在に至るまで続く、「歌」と「マラソン」を柱とするフォーマットを生み出したのだ。
「24時間マラソン」初代ランナーは…
92年の『24時間テレビ』は小杉善信と渡辺弘と僕で立ち上げたんですよ。当時『24時間テレビ』は昔『11PM』もやってらした都築忠彦※さんの企画で、1回目からずっとやられてたんです。だけど、この頃には数字的には低迷していました。当時の加藤編成部長に呼ばれて、言われたんです。
※ 1935年生まれ。元日本テレビのプロデューサーで、『11PM』の「巨泉 考えるシリーズ」を担当し注目される。『24時間テレビ「愛は地球を救う」』を立ち上げ、1978年の第1回から91年の第14回まで担当、翌年の第15回を菅原らが担当した。
「新しい形のチャリティ番組を考えられないか」
僕は日本の偽善っぽいチャリティを好きじゃなかった。だからそんな番組は興味なかったんだけど、恵まれない人たちのドキュメンタリーを見せて募金を募るんじゃなくて、もっと遊んで楽しい中で募金を集めるような番組だったらいいかなと思ったんです。それでひとつのコンセプトを立てました。
「武道館にでっかいミラーボールを吊るして、ここを音楽の殿堂にする」
「愛の歌ベスト100」を選んで、ここにいろんな人を生放送中に呼んで、歌いに来てもらうことでチャリティにつなげる企画が生まれました。1年目にはアート・ガーファンクルも来てくれて、『明日に架ける橋』を歌ってくれたんです。吉本新喜劇で人気だった間寛平ちゃんにも出てほしいって言ったら、マネージャーが、「じゃあ、寛平を走らせましょうか」という話になって「24時間マラソン」が生まれたりしましたね。
司会には「一番チャリティが似合わないタレント」を
それで一番チャリティが似合わないタレントを司会にしようという発想でダウンタウンを司会にすると決めたんです。ダウンタウンもよく受けたと思いますよ。それで僕が考えたコピーが、「チャリティやで‼」
今考えてもいいコピーですよね(笑)。
『24時間テレビ』のタイトルデザインは、グラフィックデザイナーの浅葉克己さんにお願いしました。『夜もヒッパレ』のデザインも浅葉さんなんです。『メリー・クリスマス・ショー』では桑田とユーミンがつくった『Kissin’Christmas』を本番中に練習してエンディングで歌ったので、今度は加山雄三さんと谷村新司さんに24時間の間に曲をつくってもらって、エンディングでみんなで歌うという企画を考えました。加山さんも谷村さんも『夜も一生けんめい。』での付き合いです。それが今でも番組のテーマ曲になっている『サライ』ですね。
やっぱりこのときもどうなるかわからない。武道館で「愛の歌ベスト100」みたいなことをやりつつ、『サライ』をつくる。その間、「寛平ちゃんはひたすら走っている」。1年間近く準備してきたものでした。それがしっかり形になったのは、やっぱり感動しました。
〈 「銀座」でも「浅草」でも「新宿」でもない…『アド街ック天国』の初回放送が特集した「意外なおしゃれタウン」とは? 〉へ続く
(菅原 正豊,戸部田 誠/Webオリジナル(外部転載))