「初代タイガーマスク」佐山サトル、90歳で亡くなった新間寿さんとの「秘話」告白…「何よりもプロレス愛が深い方…新間さんの愛が新日本プロレスを支えた」

2025年4月24日(木)12時51分 スポーツ報知

新間寿さん(左)と初代タイガーマスク

 初代タイガーマスク佐山サトル(67)が24日、スポーツ報知の取材に応じ、今月21日に90歳で亡くなった“過激な仕掛け人”とうたわれ、アントニオ猪木さんと共に昭和の新日本プロレスで黄金時代を築いた元新日本プロレス専務取締役営業本部長の新間寿さんへの感謝を明かした。

 佐山は、22日に都内の新間さんの自宅を弔問した。ベッドで安らかに眠る新間さんに合掌し「ありがとうございました」と繰り返し感謝の思いを伝えたという。

 「急に亡くなったと知らされたので実感がなかったんですが昨日から実感が沸いてきて…寂しいです」

 アントニオ猪木さんにあこがれ高校を中退し新日本プロレスへ入門。一度は断られたが新間さんが幹部レスラーへ話しをつないでプロレスラーになることができた。

 「当時の僕には、敏腕営業部長で偉大な方に見えました」

 大きな転機は1981年だった。劇作家・梶原一騎が原作したアニメ「タイガーマスク二世」がテレビ朝日系で放送されることに伴い実物の「タイガーマスク」を誕生させる企画が持ち上がった。猪木さんと新間さんが指名したレスラーが佐山だった。当時、英国で「サミー・リー」のリングネームでトップスターとして活躍しており、タイガーマスクへの転向を断った。

 「毎日のように新間さんからイギリスに電話がかかってきました。積極的なアプローチでしたが僕は断り続けました。でも最後に『猪木の顔をつぶすことになる』と言われて決断しました」

 タイガーマスクのデビュー戦は81年4月23日、蔵前国技館だった。正体不明のマスクマンは、控室も他の選手とは別に用意された。足を運ぶとそこは、国技館の倉庫だった。試合前に新間さんと2人で出番を待った。

 「マスクとマントが直前まで間に合わなかったので新間さんは僕に気を使っていらっしゃいました。少し焦っているようにも見えました」

 マスクもマントも直前まで完成しておらず急ごしらえだった。

 「だけど新間さんは、控室で僕がマントを着た時に『すばらしいじゃないか』と絶賛するんです。僕は、すばらしくないと思っていたんですけど、新間さんは僕を盛り上げようと思って、そうおっしゃったんだと思います」

 国技館の花道を歩きタイガーマスクが初登場した。リングに上がる直前、コーナーの下にいた新間さんが耳打ちをした。

 「リングサイドで新間さんが僕のところに寄ってきて『リングに上がったらすぐにマントを取れ』って言われたんです。控室では『すばらしいじゃないか』とおっしゃっていたのに、これは何だって思いました(笑)」

 試合は、これまでのプロレスでは見たこともなかったような衝撃的な内容でタイガーマスクがジャーマンスープレックスでキッドに勝利した。

 「新間さんは『いい試合だった』とほめてくださいました。ただ、僕は、冷静にみていい試合じゃないと思っていました。それはお客さんが沸かなかったからです」

 確かに国技館の観客が大きな歓声は沸かなかった。ゴングが鳴った直後は失笑もあった。しかし、それは佐山が見せたすべての技が異次元の域に達し、観客はどう反応していいのか分からなかったのだ。佐山にとってデビュー戦の「失敗」を挽回しようと翌82年8月30日にニューヨークのMSGで試合が決まった時、新間さんへ対戦相手にキッドを要望した。

 「僕にとっての汚名を返上しようと思った試合でした。これも新間さんがプロデュースしてくださいました」

 試合はデビュー戦をはるかに上回る内容でニューヨークのファンをたった1試合でわしづかみにした。この試合は今も米国のプロレスファンの間で語り継がれ伝説となっている。そして佐山はこう明かす。

 「新間さんは、僕にとってプロレスの生みの親です。当時、ストロングスタイルの新日本プロレスにタイガーマスクというキャラクターをやった。そこが新間さんの天才ぶりでした。新間さんの際だった才能の象徴がタイガーマスクでした」

 最近、佐山はタイガーマスク時代のビデオを見ることがあるという。

 「ビデオを見ると、新間さんがリング下でニコニコして僕の試合を見ているんです。当時は緊張して新間さんの存在は目に入らなかったんですが。今、ビデオで新間さんがニコニコしている姿を見ると、タイガーマスクへの愛がすごい人だったんだなって改めて思います。感謝しかありません」

 タイガーマスクは83年8月に突如、引退した。

 「あの時は、クーデター事件が起きて、僕はどちらにも付いていけなくなり辞めました。あと僕自身の結婚もありました。新間さんに当初は結婚を反対されたんですが、ロサンゼルスで内緒に結婚式を挙げていいとなりました。ただ、仲人を務める方が新間さんのスポンサーの方になり、それに僕の親が怒ったんです。その問題をクーデター側の人たちは利用して僕もそちら側についていると仕立てたのかもしれません。ただ、タイガーマスクを辞めた後、個人的に猪木さん、新間さんとお会いして、クーデターを起こした人をお伝えして、お互いの誤解を解いて和解しました」

 佐山は、第一次UWFでプロレスラーとして復活した後にシューティングを創始し総合格闘技の祖となった。20年前にリアルジャパンプロレス(現在のストロングスタイルプロレス)を設立してからは、新間さんが会長に就任し公私ともに行動を共にした。

 

 「晩年は、いつも新間さんと一緒だったんで、いろんなところを旅したり、いろんな思い出があります。話しを重ねるごとに現役時代では分からなかったことが見えるようになりました。僕は新間ウォッチャーでしたから」

 猪木さんが政治家時代に決別した新間さんだったが佐山はこう表現する。

 「あのおふたりはすごくいい関係でした。新間さんがあっての猪木さんだったと思います」

 そしてこう表した。

 「新間さんのことを一見、厳しい人とおっしゃる方もいますが、僕には、厳しさの中に温かさがあった方でした。今、新間さんを思うと温かさが一番印象に残っています。そして、何よりもプロレス愛が深い方でした。新間さんのプロレス愛が僕が現役だった時代の新日本プロレスを支えたんだと思います」

 佐山はメニエール病が悪化し2月には体重が90キロから73キロまで落ちるなど思わしくない体調が続いていた。

 「声も出なくて最悪でしたが、おかげさまで、だんだんよくなってきて、こうして取材にも対応できるようになりました」

 弔問後に不思議なことが起きた。

 「おととい新間さんにお会いした夜から声が出るようになったんです。自宅に帰って息子としゃべれるようになって『声が出ているな』って自分でもビックリしました。来週のお通夜、告別式も参列します」

 新間さんは亡くなる前日に佐山の体調を気遣いスマートホンのビデオに「佐山ちゃん、2人でリングに上がろう」とメッセージを送っていた。6月12日に後楽園ホールで行うストロングスタイルの大会での「復活」は新間さんにとって人生最後の「仕掛け」だった。ビデオを見た佐山は声を震わせた。

 「感無量です」

 そして言葉に力を込めた。

 「絶対にリングに上がります」

 (福留 崇広)

スポーツ報知

「プロレス」をもっと詳しく

「プロレス」のニュース

「プロレス」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ