90歳で亡くなった新間寿さん、亡くなる前日に行った人生最後の「仕掛け」…「一緒にリングに上がろう」

2025年4月23日(水)9時31分 スポーツ報知

初代タイガーマスク(右)と新間寿さん

 “過激な仕掛け人”とうたわれ、アントニオ猪木さんと共に昭和の新日本プロレスで黄金時代を築いた元新日本プロレス専務の新間寿さんが21日午後6時47分、都内の自宅で亡くなった。90歳だった。

 新間さんは、中大を卒業後に化粧品会社に就職したが、1966年10月に親交があった豊登さんが旗揚げした東京プロレスに入社しフロントとしてプロレス界に飛び込んだ。同団体はわずか3か月で崩壊。猪木さんと訴訟合戦となるなど確執が生まれたが、和解し1972年秋には、猪木さんが同年3月に旗揚げしたばかりの新日本プロレスに入社した。

 以来、猪木さんのマネジャーとして当時は「禁断」と呼ばれたストロング小林、大木金太郎との大物日本人同士の対決、ムハマド・アリとの「格闘技世界一決定戦」を頂点とする異種格闘技戦、全世界のベルトを統一する「IWGP」などロマンあふれる企画で猪木さんをプロデュースした。

 さらに1978年1月には、ニューヨークのMSGで藤波辰爾(当時は辰巳)がWWWFジュニアヘビー級王座を奪取し、ジュニアという新しい分野を開拓。WWF(現在のWWE)のビンス・マクマホン代表と公私にわたる親交を深め、新日本プロレスとニューヨークマットの距離を深め、1981年4月には、佐山サトルが変身したタイガーマスクをプロデュースし日本中に空前のブームを起こした。

 83年秋に新日本プロレスを退社すると84年4月にUWFを旗揚げ、89年夏には参院選に出馬した猪木さんが結成した「スポーツ平和党」の幹事長として政治家「アントニオ猪木」を支えた。その後、猪木さんとは決別したが、佐山が旗揚げした「リアルジャパンプロレス」(現ストロングスタイルプロレス)会長を務め、生涯をプロレスにささげた。多大な功績は2019年に世界最大のプロレス団体「WWE」が殿堂入りでたたえた。日本のプロレス界でフロントでの殿堂入りは新間さんが唯一だ。

 新間さんは、昨年から体調を崩し今年3月24日には新型コロナウイルスに感染し都内の病院に入院。コロナは回復したが肺炎を発症し闘病を続けていた。3月28日には90歳を迎え、今月18日に退院し自宅で激動の生涯に幕を下ろした。

 プロレスを愛し、アントニオ猪木を愛し、昭和の新日本プロレスを愛した新間さん。新間さんの行動力、発想、人脈がなければ黄金の昭和プロレスはなかった。それは、現在につながるプロレス界もなかったと言える。新間さんがフロントマンとして繰り返し訴えていた信条がある。

 「命をかけて人を喜ばせ、その人が喜ぶところを見て、自分の喜びとする」

 この一心で新間さんは、突進した。時にはあつれきを生んだこともある。それでも恐れることなく自らの哲学を信じ、猪木さん、そして新日本プロレスをプロデュースした。そして、何よりも新間さんが愛したのは、プロレスファンだった。

 亡くなる前日、新間さんは、スマートホンにビデオメッセージを収録していた。送った相手は、佐山サトルだった。2人は体調が思わしくなく昨年12月からストロングスタイルプロレスの大会へ来場できなかった。メニエール病が悪化し体調が思わしくない佐山へこんな言葉をささげた。

 「佐山ちゃん、早く良くなって一緒にリングに上がろう」

 6月12日の「ストロングスタイルプロレス」後楽園ホール大会で共にリングに上がりファンを喜ばせようと燃えていた。結果的にこの言葉が新間さんの人生最後の仕掛けになってしまった。

 そして、自らの体調よりも佐山の体を案じていた新間さん。過激な仕掛け人とうたわれた類いまれな偉人。その源泉にはレスラー、ファンを思う「優しさ」が流れていた。きょう4月23日は1981年に蔵前国技館でタイガーマスクがダイナマイト・キッドとデビューした記念日。44年も月日は流れど、あの衝撃はいつまでも鮮明だ。新間さんは永遠の仕掛け人になった。

(福留 崇広)

スポーツ報知

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