服部茂章追悼コラム:アメリカで戦った30年間。インディカーの試練とNASCARタイトルの偉業

2025年5月8日(木)10時43分 AUTOSPORT web


 服部茂章が交通事故で亡くなった。”シゲ”は突然我々の前からいなくなってしまった。享年61歳。まだまだ頑張れる年齢だっただけに悲しいし、残念。本当にもったいない。もっともっとたくさんの話を聞かせて欲しかった。


 茂章はレーシングドライバーとしてだけじゃなく、NASCARシリーズのチームオーナーとしても、ものすごい仕事をやってのけた。日本人オーナーが短期間であそこまでの実績を残すなんて、アメリカ人も予想していなかったはずだ。ストックカーで三番目にランクされるトラック・シリーズで、彼のチームは2018年にチャンピオンになった。


 “ド”の字がつくアメリカン・レース、それがNASCAR主催シリーズだが、なかでもトラック・シリーズのアメリカン度は飛び抜けている。トラックは“タフな男の乗り物”なので、NASCAR主催のレースでもっともワイルドなシリーズなのがトラックだ。肉弾戦になりがちなショートトラックでのレースがトラックシリーズに多いのも事実だが……。


 いずれにせよ、上位2カテゴリーとはちょっと違ったキャラクターを備えているのがトラックシリーズ。自然とそうなったシリーズには特定のファンがついていて、彼らの間で驚くべき人気を博している。そんな超アメリカンなシリーズで、日本人がオーナーのチームがチャンピオンになった。ドライバーはアメリカンだったけれど、こんな偉業はおそらく、もう二度と達成されないだろう。



チームオーナーとして2018年NASCARトラックシリーズのタイトルを獲得した服部茂章(右)

 岡山県出身の茂章は、日本のフォーミュラ・トヨタで1994年にチャンピオンになって、翌年からアメリカにチャレンジすることとなった。スカラシップなどの支援があったわけではなく、自らの意思でアメリカの天下を獲りに行った。彼に初めて会ったのは、94年のラグナ・セカ。インディーカー・レースに視察に来ていた。


 1995年、茂章はフォーミュラ・トヨタと似たマシンで争われていたフォーミュラ・アトランティックに出場。翌1996年にはインディカーの登竜門であるインディライツ(現インディNXT)にステップアップした。1年前の1994年にホンダがCARTインディカーシリーズへの参戦を始めていて、ファイアストン(=ブリヂストン)も1995年にインディカーへのタイヤ供給開始。トヨタも1996年からアメリカ最高峰フォーミュラカーに挑戦……と、絶好のタイミングでアメリカへと進出した。


 1998年、インディライツ開幕戦のホームステッドで茂章は初優勝を飾った。日本人初勝利はこの前年に野田英樹が記録していたが、オーバルでの日本人の優勝はこれが初めて(!)であり、東京中日スポーツが一面全面を使って彼の偉業を報じた。さらにこの年、茂章はゲートウェイのショートオーバルでインディライツ2勝目を挙げた。


 明くる1999年、茂章はアメリカ最高峰オープンホイールシングルシーターによるCARTインディカーワールドシリーズにデビューした。ベッテンハウゼン・モータースポーツは、強豪というより弱小チームだったが、ステファン・ヨハンソンやエリオ・カストロネベスを走らせてきたチーム。インディカーでのキャリアをスタートさせるチームとして悪いものではなかった。


 最高峰カテゴリーで茂章はどんな走りを見せるのか……と期待して見ていたが、彼のチームの使用タイヤはグッドイヤーだった。当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったファイアストンに比べ、グッドイヤーのタイヤは完全なる劣勢にあり、インディカーでの経験の乏しい茂章は大苦戦を強いられた。温まりの悪いタイヤでクラッシュを連発した彼は、CARTから出場資格を剥奪された。


 この一件の裏側は、「これまで明らかにされてこなかったが、オーナーのトニー・ベッテンハウゼンと彼の取り巻きは、茂章のスポンサー資金がチームに入った後に他のドライバーを乗せることを画策したようだ。茂章が出場できないようCARTに働きかけ、それがライセンス剥奪という形になった。私はその証拠を握ってはいないが、このストーリーは確かな筋から聞いたものだ。


 ちょうどこの頃、アメリカントップフォーミュラはIRLとCARTの2シリーズに分裂したので、茂章はIRLへとスイッチした。そして、インディ500に三度挑戦し、二度出走した。2003年にはインディ500の生ける伝説=AJ・フォイトのチームに参画。AJのチームで走る初めての日本人ドライバーとなった。



2003年にはA.J.フォイト・エンタープライゼスから参戦。この年がインディカー挑戦最後のシーズンとなった

 あのチームでのインディ500挑戦では、おもしろい話がいくつかあった。クルーの仕事ぶりの悪さに“キレた”AJが、ガレージ内でホイール付きのリヤタイヤをぶん投げた時、「マシンにぶつかったら軽いダメージ(金額的にも)じゃ済まない!」と参戦資金持ち込みの茂章はヒヤヒヤだったとか。


 また別の日には「セッティングシートがなくなった!」と、帰り際のAJが大騒ぎしたことも。結局それは床に落ちていたものの、誰かの靴の足跡がクッキリ着いた悲しい状況。しかし、その紙を拾い上げたAJは、「あー、あった」と安堵の表情を見せ、その紙を引き出しに仕舞うこともなくガレージのテレビの上に置いて、ポンポンッと手で叩いて帰って行った……とか。


 インディカー参戦を2003年で終えた茂章は、2005年、NASCARのトラックシリーズにドライバーとして参戦を開始した。この前年の2004年、トヨタはNASCARトラックへの挑戦を始めたのだった。茂章は日本人ドライバーとして初めてNASCARシリーズのレギュラードライバーとなったが、参戦初年度が半年を過ぎたところでドライバーとしてのキャリアに突然終止符を打った。



2005年NASCARトラックシリーズに挑んだ服部茂章(右)。ともに並ぶのは、左からデボラ・レンショー、ケリーサットン、ビル・レスター

 そして2008年、彼はトラック・シリーズに出場するチームのオーナーとしてNASCARのフィールドに帰ってきた。フォーミュラ・アトランティックに出場していた頃から日本人の少なくない南カリフォルニアを本拠地としていた茂章だったが、チームを興すこととなって南部の保守的なアメリカンたちが幅を利かせるノースカロライナ州シャーロットへと移り住んだのだった。


“他所者”として乗り込んで行くことを厭わず、Hattori Racing Enterprisesを設立したのだ。NASCAR最高峰で200勝、デイトナ500優勝7回、タイトル獲得7回のストックカードライバー=“キング”・リチャート・ペティの会社と同じ“エンタープライゼス”を社名に使ったセンスが憎い。AJ・フォイトのチームもAJ・フォイト・エンタープライゼスだった。


 茂章率いるHREは、NASCARトラックシリーズで14勝を記録し、2018年にはシリーズチャンピオンの栄冠を掴み獲った。これは誰が何と言おうと、まさに偉業中の偉業だ。ちょうど少し前からNASCARは少数派=マイノリティ=女性や外国人、黒人などの活躍をサポートする方針を打ち出していたが、彼らとしてもHREがそこまでのパフォーマンスを実現するとは期待も想定もしていなかっただろう。


 そのため、“日本人がオーナーのチームの大活躍”をNASCARは大歓迎した。それも当然のことだ。アメリカ人以外のオーナーで、ここまでの実績を残した人は茂章の前にはいなかったのだから。茂章以降も、まだそういう人は現れていない。





「チャンピオンになったことで、NASCARの新しいルール設定などの場面で意見を求められるようになったんですよ」と茂章は話していた、彼ならではの飄々とした笑みを湛えて。アメリカでナンバーワンのモータースポーツにのし上がっただけあって、NASCARは根っこの部分がシッカリしている。


 実績を残したチームがあれば、それが日本人オーナーのチームであっても関係なく、シリーズにとって有益なインプットを求める。そんなチームを作り上げた日本人の功績を、デイトナ500優勝3回のNASCARトップドライバー、デニー・ハムリンも讃えていた。


そして、ここ2〜3年の茂章は、スポーツカーの世界へのチャレンジもスタートさせていた。IMSAミシュラン・パイロットチャレンジにトヨタGRスープラGT4EVO2をエントリーさせていたのだ。勝手なことを言わせてもらえば、彼にはもっともっとNASCARの“濃い”ところでの勝負も続けてもらいたかった。


 驚異的に競争が激しく、注目度も極めて高いNASCARシリーズでの戦いを肌身をもって知っている日本人は、これまでのところ彼だけなのだから、その難しさやおもしろさを中側からアレコレ話して欲しかったし、まだしばらくは、最前線で頑張り続ける姿が見たかった。


(Report by Masahiko Amano / Amano e Associati)



1998年インディライツ開幕戦のホームステッド・マイアミで初勝利を挙げた服部茂章

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