【阪神90周年企画】阪神は巨人の株主だった 創立時の名簿に残された資本関係...富樫興一の足跡

2025年5月10日(土)5時15分 スポーツニッポン

 実は阪神は巨人創立時の株主だった。「伝統の一戦」としてライバル関係を続けてきた両球団だが、球団創立時から資本的にも関係があった。株主名簿に名前を連ねた阪神の初代球団代表・富樫興一は阪神球団の誕生、戦後の球団再建、そして2リーグ分立時と阪神の分岐点で常にキーマンだった。伝統の一戦の盛り上がりに、その生涯をささげた球団フロントマンの足跡を追った。

 ここに一通のコピーがある。「株式会社大日本東京野球倶楽部株主名簿」。阪神タイガースの前身「大阪野球倶楽部」が誕生する1年前、1934年12月26日に発足した巨人の株主構成を示す文書だ。

 読売新聞社社長として、球団創設の中心となり、のちに「プロ野球の父」として、59年に野球殿堂入り。今も「正力松太郎賞」に名を残す正力松太郎が640株で名簿第3位。筆頭株主は当時京成電鉄社長だった後藤国彦で2000株を保有していた。巨人の監督を務め、戦後は阪神監督として、62、64年と2度のリーグ優勝を果たした藤本定義の名前もある。

 そして、重要なのは正力松太郎に続いて、400株を持ち、名簿の第4位にある「富樫興一」だ。当時は阪神電鉄の事業課係長。翌年、35年12月10日の大阪野球倶楽部創立時には専務取締役で初代球団代表に就任することになる。つまり、阪神はかつて巨人の株主だった。プロ野球の誕生、そして阪神—巨人の伝統の一戦につながる人と資本の流れが、阪神誕生前からできていたことを示している。

 日本にもプロ野球が必要になるときが来る、と考えたのが正力だった。内務官僚を経て、読売新聞の経営に参画した正力は新聞拡張の手段として野球に着目。31年にルー・ゲーリッグを中心とした大リーグ選抜の招へいで実績を挙げると、34年にはベーブ・ルースを中心とした大リーグ選抜を来日させ、野球ブームをもたらした。

 この2度の興行の中で、日本最大の球場、甲子園を持つ阪神電鉄との接点が生まれた。正力は甲子園での興行権を阪神電鉄に与え、野球で利益が出ることを電鉄首脳に認識させた。プロ野球が成功するためにも、好敵手が絶対必要。東西対決という観点からも甲子園は外せない。大リーグ興行で得た利益の一部を、巨人に出資させ、関西を代表するチームを作る機運を盛り上げる。そして甲子園球場担当者として株主名簿に記載されたのが、富樫だった。ここから「伝統の一戦」に向け、彼の人生は進んでいく。

 甲子園球場の収益という面から球団の必要性を電鉄上層部に訴えつつ、水面下でチームづくりにも動き出す。大阪・中之島の江商ビル内に準備事務所を設け、選手獲得に向けて関大野球部OBの田中義一(のちに球団常務)、中川政人(のちに球団支配人)とともに、活動を開始。電鉄本社の決裁を経て、35年(昭10)12月10日に「株式会社大阪野球倶楽部」が生まれたのだ。

 富樫は初代球団代表として実務の中心となり、同時にスカウトとして選手獲得のため全国を回った。さらに37年には7球団からなる職業野球連盟理事長にも就任。組織づくりも進めた。目標は阪神を巨人に勝てる日本一のチームにすること。そのために全力を傾けた。東京遠征で宿敵のエース・沢村栄治を攻略すると、富樫は帰りのバスを酒屋の前で止め「みんなで祝杯だ」と車内でビールをあおったと、初代主将・松木謙治郎は回想している。

 戦後もプロ野球と阪神のために富樫は尽力した。45年に疎開先で「チームを再建せよ」との電鉄本社からの電報を受け取った富樫は、バラバラになっていた選手たちに再び声をかけ続けた。景浦将、西村幸生らが戦死。本拠地・甲子園が米軍に接収され、各地で選手たちが「野球より食料」という生活を強いられる中、粘り強く再建に取り組んだ。富樫は頭数をそろえるために息子の淳も強引に入団させた。必死だった。

 富樫の最後で最大の決断は49年オフの2リーグ分立だった。プロ野球繁栄のため新球団加盟を認め、阪神としては巨人とともにセ・リーグに残る。基本方針に沿って動いたが、「寝返り」「裏切り」などの批判も浴びた。翌年、富樫は病気を理由に専務を退任。けじめをつけた形をとったが、富樫は自身を犠牲にしても、伝統の一戦を守った。その価値は歴史が証明している。

 富樫は山形県出身。米沢興譲館から慶大に学んだ。59年の後楽園での巨人—阪神による天覧試合の5年後に74歳で他界した。球団創立90周年の今年、選手会長は山形出身の中野拓夢が務める。「初代の球団代表が山形の方だとは思わなかった。何かの縁を感じます。90年目に優勝を奪還することが、球団をつくっていただいた富樫さんへの恩返しになると思う」。歴史を超え、雪国生まれの猛虎魂は受け継がれている。 =敬称略=

 (鈴木 光)

 ○…株主名簿には、のちに阪神の初代球団代表となる富樫や読売新聞社社長の正力らとともに、興味深い人物が名を連ねていた。200株を所有した林正之助だ。のちに吉本興業の社長、会長を歴任し、日本最大手の芸能事務所を育て上げた男も、日本のエンターテインメントにとって、プロスポーツが重要な存在になることを見抜いていたのだろう。

スポーツニッポン

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