崩御した<一条天皇>その後。なぜ本人は土葬を望んでいた?なのになぜ道長は火葬にした?『光る君へ』で描かれなかった「死してなお愛によりて結ばれ」たかったその想い【2024年下半期ベスト】

2025年2月1日(土)12時30分 婦人公論.jp


(イラスト:stock.adobe.com)

2024年下半期(7月〜12月)に配信したものから、いま読み直したい「ベスト記事」をお届けします。(初公開日:2024年10月23日)
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大石静さんが脚本を手掛け、『源氏物語』の作者・紫式部(演:吉高由里子さん)の生涯を描くNHK大河ドラマ『光る君へ』(総合、日曜午後8時ほか)。ドラマの放映をきっかけとして、平安時代にあらためて注目が集まっています。そこで今回は一条天皇の死後について、新刊『女たちの平安後期』を刊行された、日本史学者の榎村寛之さんに解説をしてもらいました。

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一条天皇が亡くなった後のエピソード


『光る君へ』にて、ついに一条天皇が亡くなりました。

一条天皇が亡くなった後の対応について道長たちが語り合った、というエピソードが、藤原実資の日記『小右記』の寛弘八年七月十二日条に記されています。

その日記に書かれていたのは、実資が一条天皇の亡くなった里内裏の一条院に参内し、春宮大夫(東宮。後の後一条天皇付き役所の長官)藤原斉信と中納言藤原隆家らと話していた時、誰かが言い出した話について。

「故院(一条院のことですが、亡くなる前に譲位して出家しているので院、つまり上皇として呼ばれます)が生きていらした時に中宮彰子、左大臣道長や近く仕える人たちに、葬儀は土葬で、円融院法皇(父の円融天皇)の御陵のそばに葬ってほしい」と言っていたのに、うっかり道長が火葬にしてしまった。

そのことを相府、つまり左大臣道長も思い出してため息をつき、しかたがないので遺骨を三年たったら(それまでは方角が悪い)円融陵の傍に移そう、ということになった…というのです。

道長は忘れっぽい、もしくはうっかり者、などと紹介されることもあるエピソードなのですが、はたして本当にそうなのでしょうか。

行成は記録せず


一条天皇の葬送については『小右記』や『権記』(藤原行成の日記)もかなり詳しく書いていますが、実資の日記は、養子である資平からの聞き書きでした。実資は「慎む所があって」参加していないのです。


『女たちの平安後期—紫式部から源平までの200年』(著:榎村寛之/中公新書)

そして行成はこの「うっかり火葬にしちゃった」件については一切書いていません。これは少し不思議です。

宮廷儀礼のことについては誰より詳しい実資なら、通例である火葬ではなく土葬にするという一条天皇の遺言を執行しようと考えるのが普通でしょう。それがないということは、彼は一条の火葬の意向をこの時初めて知ったのだ、ということになります。

一方、道長や彰子以外にこの話を聞いた天皇近習の中には、権中納言で侍従を兼ねていた行成がいてもおかしくないのです。あるいは行成は口をつぐんだのかもしれません。

一条天皇が土葬を望んだ理由


そもそも火葬は、仏教の儀式ではありますが、死体を骨にすることで、死のケガレを早く無くしてしまう…という意識で導入されたという側面があります。最初に火葬された天皇は持統天皇で、それまでは天皇の葬儀は時に何年もかかるという、大変時間を要するものだったのです。

一方、平安時代の和歌を見ると、身分の高い人にとって火葬は遠くで拝むもので、その煙は人の魂が天界に上っていくしるし、たとえばかぐや姫の昇天と同様のことと考えられていたようです。

ならば土葬は、魂がずっとこの世に残り続ける、天の神の世界ではなく地の神の世界に留まりたい、という意志の表れのように思います。

では一条天皇にはこの世に留まり続けたい理由があったのか?

実はあるのです。そしてそれは、定子皇后に関係しています。

赤染衛門が書いた『栄花物語』の「とりべ野」は、定子皇后の死去と葬送の様子を詳しく哀切に書いています。

それによると、鳥辺野(京の東側の葬地)に「霊屋(たまや)」というものを造り、その中に定子の遺体が安置されたとあります。おそらくそのままで暫く置かれた後に陵を築き、そのうえで、土葬されています。

一条はこの形、つまり最愛の后と同じ扱いを望んでいたのではないかと考えられるのです。

一条天皇の心を考えると…


ならば道長がその希望を握りつぶしたのも理解できます。そして実資とともに、道長が「思い出した」場にいたのが斉信と隆家だというのも象徴的です。

斉信は、一条天皇の後継者で新東宮となる敦成親王の一の側近、隆家は定子と藤原伊周の弟で、二人が亡きあと、いわば中関白家(三人の父、藤原道隆の子孫の一族)の当主です。

つまり、次の帝にも、定子の遺族にも、

「忘れていたっていうことにしても…いいよな」

という「同意を強要」したように思えるわけですね。そしてさすがの実資も、もう焼いてしまったのだから何も言えなかったのでしょう。

一条天皇が土葬を希望したのはおそらく急病になってからだと思います。ならばこれは遺言と言ってもいいようなもの、いくら道長が度を超えたうっかりさんだったとしても忘れるわけがありません。

道長はその意味に気づき、定子のもとに一条を送るまいと決めたのではないでしょうか?そしてお堅い実資が知らなかったのを幸い、すべてが終わってから、じつは・・・と切り出したのではないでしょうか?

一条天皇の皇后定子を思う心を考えると、とても切なく思えてくるのです。

婦人公論.jp

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