刑務所帰りの48歳女性が夜な夜なタンスから衣服を引っ張り出し…施設長が辿り着いた切なすぎるワケとは?<老人ホームへの入居は人生の断捨離>
2025年4月10日(木)6時30分 婦人公論.jp
(イメージ写真:stock.adobe.com)
高齢化が進む日本では、介護人材が不足しています。2022年度の介護職員の数は215万人ですが、厚生労働省は2026年度には240万人の介護職員が必要だと推計しています。『メータ—検針員テゲテゲ日記』の著者、川島徹さんは検針員生活の後、10年間老人ホームで夜勤者として働きました。その経験から、「老人ホームは人生最後の物語の場」と語ります。そこで今回は、川島さんの著書『家族は知らない真夜中の老人ホーム』から、一部引用、再編集してお届けします。
「ご主人を殺したらしい」
一杯飲み屋の女将だった伊藤ミネさんが亡くなったあと、その部屋に新しい女性が入居した。伊藤さんが亡くなり1カ月も経たないときだった。
竹下ミヨ子さん、48歳。刑務所帰りだった。
「ほんとに刑務所入っていたの」
残業をしていたケアマネジャーの田中真奈美さんに尋ねると、
「ご主人を殺したらしいの、殺人よ。内緒ですよ」と教えてくれた。
「人殺し?」
「ご主人が悪いらしいの。D Vですよ」
突然天井を見あげて
長い刑務所暮らしのためか、竹下さんは体も心もぼろぼろになっていた。
『家族は知らない真夜中の老人ホーム』(著:川島徹/祥伝社)
前歯が2、3本抜けており、口の動きがだらしなかった。足腰が弱くなっており介助なしには立つことができなかった。車椅子のうえで上体や手がゆらゆらと揺れ、投げやりだった。
突然天井を見あげて笑うこともあった。
最初、イレズミ男の上村辰夫さんも、元社長の森山栄二さんも驚いていた。認知症の福田サヨさんは一緒になって笑っていた。
「おいおい、この女たちだいじょうぶかよ」と、森山栄二さんが言い、「気にしなくていいですよ」と、施設長の吉永清美さんが言うのだった。そして「みんなも一緒に笑おうか」と言うのだった。
「まだ若いんじゃないの。元はいい顔をしているのにね。もったいないね」と上村さんが言った。
「体を揺さぶらないの」
竹下さんの話し方はきちんとした文脈になっていなかった。
途切れ途切れであり、子どものように単語だけを並べたりし、短く言うことが多かった。
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「あれっ、あれっ」
「何? あれって、何っ? はっきり言って」
施設長の吉永さんがちょっと声音を高める。
「この女の言う、あれって決まっているじゃない」
隣の席に座っているイレズミ男の上村さんが口を挟む。彼は卑猥なことを考えている。向かい側の席で、いつもうつむいたままの樋口フジ子さんが、下を見たまま笑っている。彼女は竹下さんが何を欲しがっているか分かっているのだ。
竹下さんは体を揺らし、「あれっ、あれっ」と言いながら手でスプーンを使う真似をした。
夕食のとき、わたしがスプーンを渡し忘れたときだった。
手が震え、みそ汁など手で持って口に運ぶことができないのだ。
「はっきり言って」
「あれっ」
「スプーンでしょ」
「そ、そぅ」
「そうじゃないでしょう。スプーンと言わないと渡さないよ」と言いながら、施設長は厨房からスプーンを持ってきて、そして「はい、スプーン」と渡した。
竹下さんは上体を揺らしながら、「あ、り、が、と」と言う。
すぐにカチャカチャとスプーンと食器の触れる音がし始める。
それからが目が離せない。体を揺らすので、手にした食器も揺れる。ごはんがこぼれる。みそ汁がお椀のなかで波打つ。施設長の吉永さんもはらはらしながら見守る。
「こら、体を揺さぶらないの。揺さぶるならお椀を置いて」
竹下さんが前歯のない口を開けて笑う。
「竹下さんって、ほんと目が離せないね」
ごはんを手づかみ
向かい側では樋口フジ子さんがごはんを手づかみにする。
「こらっ、誰がそんなこと、していいって言ったの」
突然、施設長の口調が厳しくなる。
樋口さんはうつむいたまま悲しい顔になる。
まるぽちゃの認知症の福田サヨさんはにこにこして元社長の森山栄二さんを見ている。真向かいの森山栄二さんは箸の手を休めて、「うん、かわいいよ」と言っている。
竹下さんのたてるスプーンと食器の音がけたたましくなる。
テーブルのうえにごはんや煮魚が散らばる。彼女の胸元や膝のうえに、そして床に散らばる。スタッフは余分な仕事を増やしてくれると思いながらも見守るしかない。衣服にこびりついたごはん粒を取るのはひと手間である。あとになってエプロンを使うようになったが、それでも彼女の周りは汚らしくなった。
夜にゴトゴトと音が
そして夜、彼女の部屋は足の踏み場もなく散らかるのだった。
ゴトゴトと音がし、ベッドから這い出した竹下さんが小型のタンスから衣服を全部引っぱり出し、床に広げるからだ。スタッフがそれをきれいに畳んでタンスにしまってあげても、つぎの夜になるとまたゴトゴトと音がし、引っぱり出しが始まる。そして衣服を床に広げるのだった。
(イメージ写真:stock.adobe.com)
足腰の立たない竹下さんは、床に這いずりながらそれをやっていた。
「やめんな」と言っても、聞こえたのか聞こえないのか、構わずに引っぱり出しを続ける。
引っぱり出したものを、わたしがタンスに戻そうとすると、何も言わずに手を振りまわし暴れだす。仕方がないので、翌日、彼女をホールに誘導したあと、昼間のスタッフが片付けなければならなかった。
が、それも夜になると、またゴトゴトと音がし引っぱり出しが始まる。
スタッフはまた仕分けをし、きちんと畳んでタンスに戻すのだったが、最後には畳まずに仕分けだけしてタンスに入れるようになった。
ひっくり返ったタンス
あるとき小型のタンスがひっくり返っていた。
竹下さんのうえに倒れ込み、彼女は額を怪我していた。助け起こしながら、「何をしたの」と叱っても彼女は前歯のない口で笑っただけだった。額から出た血が手についていた。よほど痛かったのか、それからしばらくは衣服の引っぱり出しはしなかった。
「どうしてあんなことをするのかな」
施設長の吉永さんに尋ねると、彼女は、
「唯一の持ち物だからじゃないの」と言った。
「彼女、他に、なんにも持っていないでしょ。それを盗られていないか心配なのよ」と言った。
「いい服は何も持ってない」
わたしは、「刑務所暮らしでは……」と言いかけて口をつぐんだ。そして、「かわいそうといえばかわいそうね」と言った。
「それもいい服は何も持ってないのよ。普段着と着古した肌着だけなのにね」
施設に入っている人の生活は断捨離である。
極めつきの断捨離である。
病院に入院したときと同じで、最小限の身のまわりの物だけ。コップや歯ブラシなどの洗面用具、肌着に普段着、抱き枕、ときどき小型のラジオや数冊の本、1本のボールペンを持っている程度である。
ただ多くの入居者には家族があり、帰ることのできる家がある。アルバムや思い出もある。が、竹下さんは本当に何も持っていなかったのだ。グループホームの生活がすべてであり、懐かしい思い出すら持っていなかったのだ。
※本稿は、『家族は知らない真夜中の老人ホーム』(祥伝社)の一部を再編集したものです。登場する人物および施設名はすべて仮名としています。個人を特定されないよう、記述の本質を損なわない範囲で性別・職業・年齢などを改変してあります。
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