「あの子はディズニーランドに7回も行ってずるい」…体験が多い子どもが幸せだと刷り込む「体験格差」への違和感

2025年4月21日(月)7時10分 文春オンライン

 昨今、子育てや教育現場で話題となる「体験格差」。


 教育ジャーナリストのおおたとしまささんと、不登校支援の先駆者で、「川崎市子ども夢パーク」内にある「フリースペースえん」総合アドバイザーの西野博之さんが、体験格差という言葉が生まれる社会への違和感を語った。


*新刊『 子どもの体験 学びと格差 』(文春新書)で実現した対談を、書籍非掲載部分も含めて再構成してお届けします。


非認知能力を目的に「体験させる」おかしさ


おおた 今日は子どもの「体験」について伺いたいと思っています。いま、「体験格差」ということが指摘されています。本当はサッカーに通いたいのに言い出せない子がいる一方で、放課後を習い事で埋め尽くされていたり、週末もあっちこっちに旅行したり、キャンプしたりしている子どもがいる。そのような体験が非認知能力を高めることも強調されており、子どものころの体験の機会の差が将来の収入の差にもなると喧伝されています。


西野 遊びを通して結果的に、他者とコミュニケーションをとる力とか、感情をコントロールする力とか、困難から立ち上がる力とか、いわゆる非認知能力が身につくわけです。遊びは子どもが自らつくりだすものです。誰かから提供してもらうものではありません。それなのに、非認知能力を目的に「遊ばせましょう」になったとたんにおかしなことになります。そのためにお金を払うと、サービスの提供と消費になってしまう。そんなことをしていたら、息苦しさが、また別の形で増えるぞという気がします。非認知能力を目的にした“なんとか体験”みたいなものが行われるようになると、<子どもが自らつくり出した遊びを通じて楽しくいつの間にか非認知能力を身につけるという体験>が奪われてしまいます。親がやらせたい、やったほうがいいというものを子どもはやらされることになる。



広々としたパーク内。子どもたちはどろんこになって駆け回る ©おおたとしまさ


おおた いわゆるお勉強的な知識の習得だって、子どもが自ら遊びのように取り組んでいるときは楽しいものだったはずです。でも学校というものができて、やらされて、評価されて、比べられる構造になってから、つまらないものになってしまいました。能力の獲得が目的化すると、子どもの学びはどんどんつまらないものになっていく。それと同じことが、いま体験の分野にまで広がろうとしているわけです。このままでは<学校の外の学び>の躍動感までも奪われかねません。


西野 子どもが自分の頭や感性で、自分のやりたいことをやれる環境を求めているのは明らかです。だから、川崎市子ども夢パーク(以下、夢パーク)では「大人の良かれは、子どもの迷惑」という合言葉をつくりました。大人が良かれと思って差し出すメニューを、子どもたちはいつも、親に先生に大人たちに気に入られるように、こなさなければならない社会になっているわけじゃないですか。「大人が求める子ども像」によってどれだけ多くの子どもが苦しんでいるか。もっと子どもの発想を信じるべきだと思います。


子どもが息苦しくなっているのは大人の「やらせたい」のせい


おおた 未来をつくり、未来を生きるのは子どもたちなのに、現状の社会に不安を抱く大人たちがその発想の枠組みの中に子どもたちを押し込めようとしてしまうのはもったいないと思います。


西野 たしかに体験は大切なんですけれど、非認知能力の獲得を目的にした体験ブームには要注意です。おおたさんはよくそこを嗅ぎつけてくれました。現場にいるとよくわかりますが、子どもが息苦しくなっているのは大人の「やらせたい」のせいです。なんでも効率が求められてしまう世の中で、非認知能力まで効率よく手に入れようとする発想が広がっています。


おおた 屋外に幼児を放牧して、子どもたちが「いいこと思いついた!」という感じで遊びをつくり出して学ぶ「森のようちえん」という保育スタイルがあります。その結果、やっぱり非認知能力が育っていたという研究結果を報告する新聞記事がネットに掲載されていました。その記事に対して、「理念や取り組みは素晴らしいが、経済的にも時間的にも余裕がある一部のひとにしか享受できない。体験格差も指摘されるなかで、もっと手軽に誰でも非認知能力を高められる取り組みはないものか」というような意見もあったんです。


西野 それは森のようちえんに入らなかったら手に入らないものではないですよね。


おおた 森のようちえんを、非認知能力を授けてくれるサービス業としてとらえているわけです。ちょっと恐ろしくなりました。非認知能力の価値がプレミア化していて、なんとしても手に入れなければいけないという強迫観念を抱かせていることの裏返しですよね。体験格差があり、そのせいで非認知能力に差がつくといわれたら、わが子を格差の“負け組”にしたくない親は、効率よく非認知能力を与えてくれるサービスを求めます。


西野 非認知能力を目的にした体験という発想はやめてほしいけど、ただ一方で、私たちもかかわっている生活困窮者支援の観点からすると難しいところがあります。たとえば、自分でごはんをつくって食べるという体験すらしていないひとがいます。つまり、生活保護費で弁当を買って、食べて、ゴミを捨てているだけだから。鍋釜包丁をもっていない。このひとたちにとって、生きていく意欲が湧きづらいよねという話は僕もしてきちゃったから。


おおた そこはもちろんやらなきゃいけないことだと思います。


西野 生まれたときから、働く大人を身近に見ていない。ごはんをつくって食べるという生活をしたことがない。何のために学校に行って、何のために仕事に行くのか、わからない。だから、就労意欲も湧かない。そういう意味での体験格差はあるよなと思います。でも気持ちが悪いのは、お金がないと、子どもが非認知能力を得られないかのような論理ですよね。


「あの子はディズニーランドに7回も行ってずるい」


おおた ごはんをつくって食べる生活を知らないような家庭に必要なのは、「何かの体験に参加しました」という事実ではなくて、社会と繋がり、包摂されることですよね。食事に関していえば、牛丼屋さんやカレー屋さんの金券をもらえればおなかを満たすことはできるかもしれませんが、彼らに必要なのは、子ども食堂みたいなところで、つくってくれたひとの顔を見ながら、仲間に囲まれて食事する体験ですよね。何かを学ぶという意味での体験に関していえば、キャンプや遊園地に使える金券をもらうことよりも、夢パークのようなところでみんなと遊ぶ体験をすることですよね。


西野 体験格差といっちゃえば、お金持ちはいろんな体験ができるかもしれないけど、大切なのは子どもがしあわせになれているかどうかです。「あの子はディズニーランドに7回も行ってずるい。私なんて1回しか行ったことがない」って泣いてた子が昔いたんだよね。「それって泣かなきゃいけないようなことなの?」って思ったことがあります。問題は、7回行けた子のほうがしあわせだと思わされちゃう社会ってことですよね。1回しか行けない自分はかわいそうだと思わされている。ひと言でいえば、消費者的マインドの内面化です。


おおた 高度成長期以降の、大量に消費しているほうがしあわせだと思い込まされてきた社会の延長線上に、いま子どもの体験までもが置かれてしまっているということですよね。その価値観でいくと体験も少ないより多いほうがいいし、体験が多いほうが将来大量に消費できるひとになれる確率が高まるから、やっぱり体験は多いほうがいい、みたいな、ちょっとトートロジーっぽいループにはまります。本来ひとと比べようもないはずの「体験」という概念に、「格差」という比較ありきの言葉をくっつけてしまう社会ってなんなんだろうという強い違和感があります。


西野 38年間不登校の子どもたちとかかわってきて感じるのは、大人がよかれと思って用意したパッケージを、喜んで受け取らなきゃいけないつらさ、悲しさ、苦しさみたいなものがあるということです。そこに主体がないんだよね。大人が子どもを喜ばせてあげようという関係性自体に子どもは気づいています。はっきりいえば、それがうざい。子どもに体験させてあげようと思って大人が差し出すものに、子どもの主体はあるのか。


おおた 「本人がやるって決めたんです」ともよく聞きますが、大人たちの気持ちに無意識的に忖度していることも多いわけです。それは本当の主体性なのか……。消費型社会の価値観をもって子どもたちを見ると、かわいそうな子と恵まれている子がくっきり分かれます。それは「格差」といえば「格差」かもしれない。でも、そういう軸で子どもを見てしまうこと自体が、子どもの自己像をつくってしまいかねないと思うんです。


西野 そうなんだよ!

〈 「体験が足りない、かわいそうな子」…お金がかかる体験を重視する親が知らない「しあわせの原体験」とは 〉へ続く


(おおた としまさ,西野 博之)

文春オンライン

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