真言宗の僧侶、名取芳彦さんが教える執着からの解脱。毎日人をほめる、自然に触れる…五感を研ぎ澄まし感性を豊かにする小さな悟りの開き方

2025年4月22日(火)12時29分 婦人公論.jp


(イラスト:名取芳彦)

できなくなることが増えると、過去を思い返して「昔はよかった」とくよくよしてしまうもの。僧侶の名取芳彦さんは、日々のちょっとした練習で少しずつ執着から「解脱」することができると説きます(構成:野本由起 イラスト:いだりえ・名取芳彦)

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<前編よりつづく>

暮らしの中で感性を磨く練習法


《毎日、人を褒める》


他者に関心を持たなければ、人を褒めることはできません。私は、訪ねてきた檀家さんを玄関で出迎える際、その人のいいところに気づこうと、全力で観察します。
「おしゃれなスニーカーを履いていますね」など、たったひと言でもかまいません。相手のいいところを見つけて、嘘やお世辞ではない、本心からの言葉を伝えましょう。

《ものに触って、五感を研ぎ澄ます》


私は犬の散歩に出かけた際、いろいろなものを手で触るようにしています。
桜のつぼみに触って「そろそろほころんできたな」、公園の水道水に触って「だいぶ冷たさがゆるんできた」と感じる。
こうして季節の移り変わりを五感で感じるのも、感性を磨く訓練になります。デパートの和菓子売り場を覗いて、季節を感じるのもおすすめです。

《起きた出来事を人に話す》


その日外出して最初に出会った人に、朝起きてからそれまでに起きた出来事や感じたことを簡単に話しましょう。
「今朝外を見たら、大きな霜柱が立っていたよ」「積もった雪に触ったらきれいに手形がついて、怪獣の足跡みたいになった」など、ちょっとしたことでかまいません。
家族以外の誰かに、数十秒で話す癖をつけると、何気ない風景から何かを感じ取る「心のアンテナ感度」を高めることができます。


(イラスト:いだりえ)

小さな悟りを開いていこう


こうした練習を重ねても、すぐさま心おだやかな境地にたどりつけるわけではありません。お釈迦様は35歳でいっぺんに悟りを開きましたが、私たち凡人には土台無理な話。ですから、「これに関してはこだわりがなくなった」と思えることを、ひとつずつ増やしていければ十分です。

たとえば、「掃除をしなくては」「洗濯は朝のうちに」など「やるべき」にこだわると気が重くなりますが、「身の回りをきれいに保つには、掃除・洗濯はやって当たり前。苦にもならない」という境地に達すれば、悟りを開いた状態になります。

「これをやるべき」と思っている「有為」の状態から、「何のこだわりもなくできる」という「無為」になるのが、「解脱」。

大さじ何杯といちいち分量を量らなくても、鼻歌まじりに料理ができるようになれば、料理からの解脱。夫婦喧嘩を繰り返した末に、「もういい。自分の都合は引っ込めて相手を優先しよう」と思えれば、それは夫婦喧嘩からの解脱。このように物事を細分化して、小さな悟りを開くことを「別解脱」と言います。

こうして「無為」でできることを増やすと、心おだやかに暮らせる。とはいえ、年を重ねると、これまで「無為」でできたことが億劫になり、「有為」になることもあるでしょう。

そんな時は「私もまだまだだな」と笑い飛ばしてしまえばいいのです。続けていれば、また「無為」でできるようになるかもしれないのですから。

「余った人生」なんてない


私は定年退職する人によく、「今日も命の第一線、わが人生の最前線」という言葉を贈ります。職場は社会の第一線。そこを立ち去るのですから、皆さん一様に寂しい思いをするようです。

とはいえ、リタイアしたからといって人生が終わるわけではありません。今日もあなたは人生の最前線を生きている。だから、自信を持って前に進めばいいのです。

年を重ねて、家事や趣味が以前のようにできなくなった人にも同じことが言えます。「昔はよかった」と過去にこだわる人は、今の自分をみじめにするだけ。「どうせ私は……」と言う人は、過去の経験にすがっているばかりで、ちっとも未来に生きようとしていません。

自分は将来どうありたいのか、そのために今の自分に何ができるのか。そう考えた時に初めて出てくるのが知恵です。人を賢くするのは過去の思い出ではなく、未来に対する責任感。

老後のことをよく「余生」と言いますが、私は人には「余った人生」なんてないと思います。いくつになっても前を向いて、第一線を歩んでいきたいものです。

婦人公論.jp

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