テレビに音楽、年齢による差異が大きかった昭和後期世代。『昭和40年男』創刊編集長が憧れたヒーロー<仮面ライダー>の藤岡弘、に会ったら意外すぎる話が…

2025年5月6日(火)12時30分 婦人公論.jp


(写真はイメージ。写真提供:Photo AC)

大阪・関西万博の開幕に伴い、1970年に開催された大阪万博にもたびたびスポットライトが当てられています。そんななか、人気雑誌『昭和40年男』創刊編集長の北村明広さんは、大阪万博後の昭和46年以降を「昭和後期」と定義し、この時代に育った人たちを「次々と生み出されたミラクルに歓喜しながら成長した世代」だと主張します。今回は北村さんの著書『俺たちの昭和後期』から一部を抜粋し、再編集してお届けします。

* * * * * * *

歳の差に横たわる大きな壁を楽しむべし


昭和46年、華々しく、昭和後期元年がスタートした。

この年より、社会がカラフル志向へと変化した。昭和40年生まれの筆者は6歳だ。

読者諸氏はこの瞬間を何歳で迎えただろうか。くっきりはっきりと記憶しているような先輩諸氏は、かわいい弟の戯言として、後輩たちは兄貴のわがままで偏った解釈として受け止めてくだされ。

同じ事象の解釈に、性別はもちろんのこと、年齢による差異が大きく生じることを雑誌『昭和40年男』を作っていた時に嫌というほど味わった。加えて、育った地域や兄弟の構成なども強く影響する。そこに、親たちや大人たちの戦争体験による価値観の植え付けがあると、思考は大きく左右される。

幼少期の経験差はとてつもなく大きい


ひとつ、例えばだ。

浦沢直樹の『20世紀少年』という、昭和臭の強い作品がある。大阪万博が強くフィーチャーされていたこのストーリーを、昭和40年生まれの人間には書けない。浦沢先生は昭和35年の早生まれで、万博開催時は小学5年生。強く惹かれた年頃だ。同級生たちと大いに盛り上がっただろう。

『ウルトラマン』も小学低学年で遭遇しているから、受けた影響を強く感じさせる。再放送で目撃した我々世代とは、ありがたみが異なるように伝わってくる。

さらに加えて、ロックバンドT REXの名曲「20センチュリー・ボーイ」も物語に強く関与する。ちょうど洋楽に興味を持つ時代の浦沢少年だったかもしれない。ヒットしたのは彼が中学2年生だ。洋楽にショックを受けるタイミングにはベストで、万博・ウルトラマン同様に、感情が作品の中で生き生きとしている。

とまあ、アラ還にとっての5歳差はさほどではないが、幼少期の経験差はとてつもなく大きい。

そもそも人には人の数だけ差異がある。受け入れてみることで、おもしろい自分が練り上げられる。これを昭和後期世代は、当たり前にして生きてきた。SNSで類友とばかり繋がっている、若い世代の読者さんには強く言いたい。他人への尊重と寛容がなければ、調和は生まれない。

と、偏った主張を正当化しようと姑息な訴えかな。

昭和後期起点の軌跡を彩るビッグスター


“華々しく”と書き出した昭和後期だが、小学校にも上がっていないその記憶はややぼんやりとしている。ただそれ以前、幼稚園でいえば年中と年長では全く異なる良好な景色に変わる。3歳未満の記憶などない。凡人ゆえかもしれないが。

昭和40年に生まれた幸運を感謝している。ギリギリで昭和後期元年の記憶があるからだ。加えて、昭和にまつわるこれまでの取材と、時代考証とをクロスさせて論じていく。

昭和後期元年に6歳を迎えた男子には、あまりにもエポックメイキングなヒーローが登場した。

『仮面ライダー』だ。

これに影響を受けなかった同世代男子を探すのは、極めて困難だ。

その影響の大小を大きく左右するのが、前述したとおり年齢な訳だが、昭和40年に生まれた筆者にとって、幼き思考がドンピシャだったと胸を張る。疑うことなく、ライダーとショッカーの世界に入り込めたのだから。

これ以上のショックを受けたヒーローを知らない。

大人になったら『仮面ライダー』になりたい


『仮面ライダー』は、ベースが生身の人間である。ロボットでも宇宙人でもなく、人間だった。戦っている怪人も、秘密結社により手術を施されただけで、ベースは人間だ。胸は張ったものの、当時の6歳にしてはあまりにも幼稚でお恥ずかしい話をひとつ。

大人になったら『仮面ライダー』になりたい。


(写真提供:Photo AC)

生まれて初めて描いた夢だ。

荒川区の産婦人科に生まれた以上、宇宙人にはなれない。大型ロボットを操縦することにロマンを感じたが、それよりも自分自身の身体で戦うことに震えた。地球の平和を、どんなに苦しくともつらくとも守り抜くことに自身を捧げる覚悟に、美学を見出したのである。

自己犠牲であり滅私奉公だ。そんなヒーロー感が完成した。

大人たちは子供たちのために全力であり、本気だった


このスピリットを持てた深い感謝から、雑誌『昭和40年男』の創刊号に、藤岡弘、のインタビューなしではありえないと、つんのめった。

見事、取材依頼は受け入れられ、記念すべき創刊号の表紙にも登場している。

彼は言った。ショッカーの戦闘員こそがヒーローなんだと。

撮影では、大きな石がゴロゴロしている地面に、ライダーの攻撃を受けるたびに飛び込む。あざだらけの身体で、撮影が終われば稽古に励む。弁当は粗末なシャケ弁当だったと、心よりの声を振り絞った。

大人たちは子供たちのために全力であり、本気だった。壮絶な現場を作り上げ、ブラウン管からはみ出してくるような熱が、ガキどもの心を鷲掴みにしたのだ。

藤岡本人も、撮影中の事故で大怪我を負っている。攻めた走りのバイク転倒で、足があらぬ方向に曲がっていた。慌てて戻した瞬間に、意識を失ったと語っていたのには、思わず顔をしかめてしまった。

この入院による代役で登場したのがライダー2号とは、ガキには到底想像できず、取り入れられた変身ポーズに夢中になった。番組中断も検討されたようだが、不屈の魂は『仮面ライダー』そのままにシリーズは続き、今へと繋がる。本気で演じた藤岡の大怪我によってもたらされた、運命めいたストーリーだ。

やがて1号はカッコよくなって戻ってきた。ダブルライダーの大興奮も経験した。

※本稿は、『俺たちの昭和後期』(ワニブックス)の一部を再編集したものです。

婦人公論.jp

「昭和」をもっと詳しく

「昭和」のニュース

「昭和」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ