石原裕次郎の壮絶な“がん闘病”…「半狂乱になって、まず石原の看病が出来なかったでしょう」まき子夫人が没後に明かした“本当の病状”

2025年5月6日(火)18時0分 文春オンライン

〈 “銀幕スター”石原裕次郎が「がん」で死去した直後、まき子夫人が寄せた独占手記「もう一度裕さんに会いたい」 〉から続く


 1956(昭和31)年、兄の芥川賞受賞作が原作の映画「太陽の季節」でデビューした俳優の石原裕次郎(1934〜1987)。北原三枝の芸名で活躍し、「狂った果実」などで共演した、まき子夫人(1933〜)と昭和35年に結婚。「永遠のタフガイ」として映画やテレビ、歌手としても活躍したが昭和62年にがんで死去。直後に刊行された緊急増刊「さよなら石原裕次郎」へ、まき子夫人が独占手記を寄せた。(全2回の2回目/ 前編から続く )



渡哲也氏(右)らに付き添われて記者会見する石原裕次郎氏(中央) 1981(昭和56)年8月30日、東京・信濃町の慶応病院 ©共同通信社


◆ ◆ ◆


「よくぞ騙して下さいました」


「良性潰瘍」ということは、3年前に知らされておりました。奇しくも、小林専務から、私が宣告を受けたのが、3年前(84年)の7月17日なんです。で、丸3年後の7月17日に亡くなりました。これが不思議でしようがないんですね。


 小林専務たちは、もっと以前から、知らされていたらしいんですけれども、それで、大変、苦労なさったようです。


 石原は、非常に感性が鋭いところがあるから、必ず自分たちの行動とか言動で感じとってしまうだろう、いままで、動脈瘤の治療に専念していたのが、また違う動きになると、当然、分ってしまう。これだけでも十分に注意が必要なのに、私に知らせると、私を通じて、石原が知ってしまう、どんなに私に、「あなた女優でしょう、芝居して下さい」と言っても、あの人はダメだと。ですから、まず奥さんを騙そう、ということになったようですね。


 それで、最初から「悪性」と宣告されていたのに、私には「良性です。治療によって治るんですよ。だから頑張りましょう」と言ってくれていたのです。


 お通夜の晩に、お客様がお帰りになったあと、そういう人たちが、嗚咽しだしたのです。もちろん石原が亡くなったことで、みなさん……、と思っていましたら、「奥さん、ごめんなさい。奥さんを騙していたことがたまらなかった」って、おっしゃるんです。だから、「とんでもありません」って、「よくぞ私をきょうまで騙して下さいました」ってお礼を申し上げました。


 もし、あの時に、私が皆さんと一緒に同じことを知っていたら、半狂乱になって、まず石原の看病が出来なかったでしょう。と同時に石原に知れてしまうでしょう。すると病院にも迷惑をかけますし、他の人々にも知られてしまうでしょう。だから、私は、「本当に、ありがとうございます」って申し上げたのです。本当によく助けて下さいました。


 井上教授、都築助教授をはじめ、慶応病院の皆様方、看護婦さんたちも本当によくして下さいました。医学の粋をつくして、これ以上の治療がないというくらいよくやって下さったのです。それでも結局石原は助かりませんでした。悪性腫瘍というものがどんなに怖いものか、改めて知りました。


たった一つの形見


 いま、残念に思うのは、密葬のとき、まったく余裕がなくて、遺髪を切って残すことができなかったことです。ただ、40代の頃でしたか、白髪があったよと言って床屋さんから、白髪を持って帰ったことがあります。私は、それを紙入れに入れて大切にとっておいたのですが、それがいま、主人のたった一つの形見となりました。


 それなのに、しばらくは、遺品を見ることにさえ怖(おそろ)しさを感じました。祭壇にある写真を見ることも出来なかったのです。


 でも、今は涙を流す暇もありません。石原裕次郎の家内として、けじめはきちんとつけたいと思っています。本葬までは、頑張っていかなければならないのです。


 そのあとで、私たちを助けて下さった人たちと、ゆっくり泣きましょうって話しているんです。それでも私は、できることなら、石原と会いたい。本当に、もう一度、会いたいんです。


◆このコラムは、いまなお輝き続ける「時代の顔」に迫った『 昭和100年の100人 スタア篇 』に掲載されています。


(石原 まき子/ノンフィクション出版)

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