“がん闘病”中の石原裕次郎は慎太郎に「兄貴、元気でいいなあ」と…「初めて弟に、後めたいような気がしたのを覚えています」

2025年5月5日(月)7時0分 文春オンライン

石原裕次郎は「俺は借金を返すためにやっただけだ。歌手じゃないんだから」と…兄・慎太郎が“弟の歌にダメ出し”の真相とは 〉から続く


 石原裕次郎は、強い絆で結ばれていた兄で作家の石原慎太郎氏(1932〜2022年)にしか見せない顔があったという。死去の直後に緊急増刊「さよなら石原裕次郎」へ発表された手記では、知られざる「タフガイ」の素顔が明かされている。(全3回の3回目/ #1 から読む)


◆ ◆ ◆


「兄貴、元気でいいなあ」


 私は弟自慢でありませんでしたし、彼の映画を、こんなのは駄目だなどと、よく批評したものです。


 しかし弟は、私が新しく出した本に、


「石原裕次郎様 恵存」


 と書いて送るのをいつも楽しみにしていて、すぐ読んで感想を言ってきましたが、面白かったとは言っても、つまらなかったという言い方は一度もしませんでした。


 弟はなかなかうるさいところがありましたから、自分で不本意な本は送らないでいたのですが、すると、


「何か出てるそうじゃないか、送れよ」


 催促するので、やがてはほとんど全冊送ることにしていました。すると、必ずその本を沢山買って、面白いからと人に配っている。


 そういうところは、兄思いというか兄自慢でした。私はあまり弟自慢じゃなくて、死んでしまってから、弟がどんなにみんなに愛されていたかを改めてつくづく知らされました。



渡哲也氏(右)らに付き添われて記者会見する石原裕次郎氏(中央) 1981(昭和56)年8月30日、東京・信濃町の慶応病院 ©︎共同通信社


 死ぬ1カ月ほど前だったと思います。潜りに行って陽に灼(や)けて見舞いに行ったら、


「その顔は何だ。海か」


 とききます。


「海だ」


「ヨットか」


「いや、潜りに行ったんだ」


 そしたら、ふーんと言っていて、しばらくしてからポツンと、


「兄貴、元気でいいなあ」


 と言いました。


 初めて弟に、後めたいような気がしたのを覚えています。


忘れられない弟の目


 別の時ですが、末期の肺ガンをフィリピンの心霊療法で治したという知人の話をしたことがあります。弟はそういうものを全然信じないのに、その日に限ってくわしく訊きたがったのです。そして、


「お前も、まず体質を根本的に変えないと、治らないかも知れんよ。西洋医学とは何か違ったことをしなかったら、駄目かも知れん」


 と言うと、はっきり頷いたのです。そして私が帰ろうとしたら、わざわざ手を伸ばしてきて握手を求めました。こんなことは、滅多にないことでした。私が握り返すと、またすぐ強く握ってきました。


 それはまるで、


「何とか助けてくれ」


 と訴えているように感じられました。


 西洋医学で治らぬものなら、無理にでも他の療法をためさしてもよかったのかもしれません。しかし、いろいろ前後の事情もあって、結局、私には何も出来ませんでした。そのせいか、すがるような目で私を見た。あの時の弟がどうしても忘れられないのです。


◆このコラムは、いまなお輝き続ける「時代の顔」に迫った 『昭和100年の100人 スタア篇』 に掲載されています。


(石原 慎太郎/ノンフィクション出版)

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